2011年12月22日

あわただしい1年でした。本もあまり読めていません。

父の葬儀から1カ月。やっと落ち着いてきましたが、残務整理も後少し。借りていた畑も返さなくてはなりませんし、今後は書類ばかりでなく肉体労働が待っています。
そのまま100坪の畑を引き継げばいいのですが、100坪はあまりに広い。父は僕の年齢の頃は300坪、一反を借りていました。耕運機を買い、畑のふちに小屋まで建てた本格的な「百姓」でしたので、すべてを返すとなると、大仕事。

食の安全や、3,11以後の自分の生き方を変えていくならば、少しだけでも「百姓」するのがいいのですが、フルタイムで仕事をしていると、休みは身体を休めたい。そうなると、畑を返上するしかありません。

今年買った本は書籍ノートを見ると、約300冊。新刊は少なく、オークションや「ブ」で買った本がほとんど。費用はそれほどかかっていません。

これは良かった、、面白かった本  10冊ずつ

「ブ」での拾いもの  すべて105円

1、「アシスタント」と「短編集」マラマッド著 新潮文庫
2、「琥珀色の夢を見る 竹鶴政孝とニッカウイスキー物語」PHP
3、「一日の終わりの詩集」長田弘著 みすず書房
4、「極私的東京名所案内」坪内祐三著 彷徨社
5、「渓(たに)」冠松次郎著 中公文庫
6、「ベトナム秘密報告 下」サイマル出版
7、「風船爆弾」鈴木俊平著 新潮文庫
8、「エロティシズム」バタイユ著作集 二見書房
9、「フランス風にさようなら ニューヨーカー短編集」旺文社文庫
10、「聖書の大地を行く」 太田愛人著 大和書房

オークションで買ったもの

1、「アシジの聖フランチェスコ」 Gグリーン著 人文書院
2、「芸術新潮 ブリューネ・ヴァルトの全貌」 1983年9月号  新潮社
3、「メイエルホリド 粛清と名誉回復」    岩波書店
4、「ひとはどのようにして兵となるのか」上下 彦坂諦著 創樹社
5、「わたしは軍国少年だった」 川崎洋著 新潮社
6、「宗教改革の精神」 宮田光雄著 創文社
7、「シモーヌ・ヴェィユ伝」 ジャック・カポー著 みすず書房
8、「拒絶された原爆展」  みすず書房
9、「大衆文学論」 鶴見俊輔著 六興出版
10、「韓くにの風と人」 藤本巧写真集 フィルムアート社

地元の古書店で買ったもの

1、「先師先人」 竹之内静雄著 講談社文芸文庫
2、「道元  座禅ひとすじの沙門」 今枝受真著 NHKブックス
3、「現代の省察 森有正 垣花秀武対談集」  春秋社
4、「土着の仮面劇」 松永伍一著 田畑書店
5、「巨人伝 南方熊楠」 津本陽著 文芸春秋社
6、「日本文化への一視覚」 生松敬三著 未来社
7、「パリの断頭台」 ブルフィンチ著 法政大学出版局
8、「ユダヤ教の人間観」 Eフロム著 河出書房新社
9、「へそまがりフランス文学史」 渡辺一夫著  光文社カッパブックス
10、「わたしの戦後出版史」 松本昌次著 トランスビユー

本屋で買ったもの

1、「ワグナーとニーチェ」 F,ディスカウ著 ちくま学芸文庫
2、鈴木清写真集    白水社
3、「谷干城 憂国の明治人」 小林和幸著 中公新書
4、「ヴァルター・ベンヤミン」 仲正昌樹著 作品社
5、「侍とキリスト ザビエル日本航海記」 ラモン・ビラロ著 平凡社
6、「PAPA&CAPA」 阪急コミュニケーションズ
7、「海炭市叙景」「黄金の服」「移動動物園」 佐藤泰志著 小学館文庫
8、「たえず書く人 辻邦生と暮らして」 辻左保子 中公文庫
9、「映像から音を削る  武満徹映画エッセイ集」 清流出版
10、「思想としての編集者」 深井智朗著 新教出版社

書評や本屋で見て買った新刊本は少ない。ほとんど、読みたかったけれど、新刊では高かった本や、当時、買わずにおいた本ばかり。「こんな本もあったのか」と、喜んで手に入れた本も少し。冠(かんむり)松次郎の『渓(たに)』は、中公文庫で出た時は買わずじまい。その後、版切れ(絶版?)になり、探していたもの。学生時代、全国市長会でアルバイトをしていた時、Kさんという農水省OBと、山の話をしていて、黒部渓谷を調べ上げた冠松次郎の名前を出すと、Kさんが驚いたように「君は冠さんを知っているのか!」と、驚かれました。Kさんは農水省の現役時代、あの「黒部の神様」、冠松次郎と一緒に山に登ったとのこと、僕みたいな若造からまさか冠さんの名前が出てくるとは、驚きと感激で、その後、Kさんは、アルバイトの僕を見る目が変わり、かわいがってくれました。

渡辺一夫の『へそまがりフランス文学史』。こんな本を書いていたとは知りませんでした。これは、彼一流のユーモアがあり、肩がこらずに読める「名著」。

12月26日から、1月3日まで、家内が信州に里帰り。ひとりで静かに、学生時代以来の「独身」に戻ります。
いや、ひょっとして、「軽」にスタッドレスをはかして、また、信州向けて、冬の高速をぶっ飛ばそうか?  その時の気分次第。いや、やっぱり、静かにお正月を迎えるべきか?
思案中。

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2011年12月21日

ゼロ戦乗りの回想  アメリカの考え方に驚く

11月に入所したMさん(90歳)は、元、ゼロ戦のパイロット。南方のトラック島で曹長(終戦時は少尉)。お昼の時間に同じテーブルで、時々、戦争当時の話を聞き出しています。

Q 訓練はどこで?
A 大分の柳ヶ浦じゃ。(大分県の宇佐の海軍航空隊)

Q トラック島へはいつ?
A 昭和18年の3月

Q おもに搭乗した飛行機は?

A ゼロ戦(本人はレイ戦といいます)の52型

Q 不時着したことがあるそうですが?

A いつも自分の載っている機に燃料を入れてくれたことを知らず、別の機(通信士と2人乗り)で偵察任務に出たため、それが自分には伝わっておらず、燃料が途中でなくなり、サンゴ礁の外の小島の浜辺に命がけで不時着した。

Q一番驚いたことは?

A 撃墜されたアメリカのグラマンが、ほとんど壊れないまま回収された。その機体を見た時、アメリカの飛行機は金属部分は磨いたりせず、切断面など、ささくれだっていた。まるで,で
きたばかりのような仕上げだった。日本の飛行機は一機一機、きれいに磨いていたが、アメリカは、そんなことをせず、たくさんの飛行機を作っていることを、目のあたりに見た。エン
ジンは馬力も強そうで大きかった。
軍の上層部にこのことを報告したが、時すでに遅かった。アメリカの物量の凄さや考え方に驚いた。

Q 昭和19年2月のトラック島空襲で飛行機は失いましたよね。

A 終戦の時、飛べる完全な飛行機は一機だけあった。燃料はたくさん残っていた

Q 復員はいつ?

A 20年の12月25日に横須賀へ。米と麦を少し貰った。東京に出て、上野の山から、丸焼けの東京を見た。皇居のお堀で鯉を釣っている人が「戦前は釣ることができなかったので、鯉も大きくなっていますわ。」と、釣りに一生けん命だった。食うに食えない時やったからねえ。戦争に負けて、皇居のお堀の鯉を釣っても、誰も言わん時代やった。

一定の性能を維持し、機械で大量生産された戦闘機をおしげもなく投入するアメリカ。
一方の日本は手作りに近い戦闘機をピカピカに磨いて投入。歩兵は明治時代に作られた菊のご紋章入りの三八式歩兵銃を命よりも大事にすることを教育される・・・
Mさんの話から戦争の実相を教えられます
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2011年12月05日

生き残った者もあわれです。  旅順攻撃

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』がテレビドラマ化され、つい、昨日は旅順攻防をえがいていました。

先日亡くなった父は司馬さんの作品が好きで、『坂の上の雲』は数回読んだようでした。昨年までは、このテレビドラマを楽しみに見ていましたが、クライマックスに当たる、今回の旅順攻撃、日本海海戦を観ることなく逝ってしまいました。

僕は司馬さんの、それほど熱心な読者ではありませんが、父に勧められて『坂の上の雲』は読みました。面白く読めましたが、それ以上のめり込まず、どちらかというと、吉村昭さんの方をたくさん読んでいます。

歴史は好きですが、「歴史小説」はあまり読んでいません。小説より、ノンフィクションの方が面白かったためです。

ドラマを見ながら、ひょっこり思い出して、取り出したのが、写真の「感謝状」。
数年前に亡くなった、父の義理の弟、I叔父から「おれが持っていても、やがて消えてしまう。お前が預かってくれ」と頼まれた物。

I叔父の祖父、源之丞さんは旅順要塞、東鶏冠山保塁の攻撃で、重傷。足と腰をロシアの機関銃に撃たれ、「貫通銃創」、命は助かり、生還します。亡くなった父は「源之丞さんは、足と腰をやられ、土佐でいう「チンバ」で、百姓仕事は十分できなかった。田畑をひとに貸し、その上がりで食っていくようになった。傷痍軍人としての誇りで生きたようなもの」と、昔、語ってくれました。

死ぬも地獄、生きるも地獄の旅順。100年前の「感謝状」が物語るのは「悲しい歴史」です。

司馬さんは日露戦争を「祖国防衛戦争」と定義しましたが、「祖国」である日本の国土で戦われたわけではなく、当時の中国が戦場でした。

この司馬さんの定義には賛成しかねますが、司馬さんは晩年、バブル、土地投機に狂奔する「この国のかたち」を見て、「人間は進歩しない。世の中が便利になるだけだ」と「あきらめ」にも似た「司馬史観」を持って亡くなりました。龍馬や秋山兄弟だけで押えることのできない司馬さんの「哀しみ」を想います。

写真は「感謝状」明治40年

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2011年11月30日

やっと、地元で日の目を見た 石元泰博の作品

このブログを書き始めた1年前にも取り上げましたが(11月21日付)、高知で生まれ、アメリカで写真修行した石元泰博さん(1921年、アメリカ生まれ、3歳で父の故郷、土佐市高岡町へ帰郷、現在の高知農業高校卒業後、再渡米、日系収容所に入れられる。戦後、アメリカ、シカゴで写真を習得、再来日、その後、日本国籍習得)の写真展「写真家・石元泰博の眼−桂、伊勢」が高知県立美術館で開かれています。

1年前のブログで、僕は、せっかく石元さんが、高知に作品を寄託(寄付?)してくれたのに、地元では見ることができず、「死蔵」されていることに、異議を唱えました。

あの時は県外の水戸芸術館で大規模な写真展が開かれ、その作品のほとんどが、「高知県立美術館」から、貸し出されたもの。「水戸で見れて、高知では見れないのか!」と、怒りの声をあげましたが、高知でも、長い時間をかけて、今回の企画の実現にエネルギーを注いでいたようです。ごめんなさい。

写真小僧であった高校生の頃は、「報道写真」の方に興味があり、アメリカに亡命したバウハウス系の写真家たちに、直接習った石元泰博さんの作品は、モダンな要素が強く、桂離宮を撮った作品より、大都市シカゴを取った写真の方にしか関心がありませんでした。今回、地元の美術館が総力をあげて取り組んだ、写真展「桂、伊勢」に、改めて石元さんの力量を見せつけられました。

個人的には「伊勢」より、「桂」の方が好きです。それでも、2つの建築のすべてを細部まで、大型カメラで写しきった迫力を、石元さん手焼き(石元さんは自宅の暗室で、気に入るまで、暗室作業をすると、以前、聞いたことがあります)の白黒プリントで鑑賞できたことはうれしい。

ブルーノ・タウトは「泣きそうなくらい美しい」と言いましたが、桂離宮の美は、今では、石元に撮られた作品が世界に発信されています。ここまで「細部」を見つめた写真家は、日本にはいません。

写真展は12月18日で終わりますが、できるならば、手狭な県立美術館ですが、「石元泰博コーナー」を作って、代表作のシカゴ、桂、伊勢、その他の作品を常設展示(作品入れ替え)してほしいものです。

小さな地方美術館ですが、初めて訪れる方を案内する時、僕は初期のシャガールの油絵、石元泰博の写真、まだ知られてはいませんが、土方久功(ひじかた ひさかつ)の木彫を見せたい。


写真は「写真家・石元泰博の眼−桂、伊勢」ポスター


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2011年11月26日

ゼロ戦乗りが入ってきました

僕の勤めるホーム(高齢者専用賃貸住宅)に、元、海軍兵曹長 Mさん(大正10年生まれ 90歳, 終戦時 少尉)が入ってきました。

Mさんは元海軍のパイロット、太平洋のトラック島の基地で、ゼロ戦(Mさんは零(れい)戦といいます。)や月光(双発夜間戦闘機)などで飛んでいたようです。

入居初日に、昔の戦争の話を聞くと、食事の手も止めて、話しが止まらなくなりました。

90歳のMさん、眼光鋭く、記憶も確か。背筋も伸び、かくしゃくとしています。

トラック島の基地は昭和19年2月、米軍の大空襲を受け、壊滅、Mさん曰く「破壊された飛行機や兵器から、鍬や農具を作り、終戦まで、「百姓」して食いつないだ」とのこと。

戦史によると、米軍は空襲でトラック島を襲い、上陸、占領せずに無力化し、先に進んだようです。飛べる飛行機を失って、「自給自活」の島暮らし。その様子はまた、ゆっくり聞いてみたいです。

posted by うんちくウメッチ at 10:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月25日

無事、送り出すことができました。


20日の葬儀で、父を送ることができました。

11月23日は、僕たち夫婦の「結婚30周年」。「初めて夫婦2人になったね」、と、感慨深いものがありました。
いまさら2人になって、「何か」をするわけではありませんが、これから先、何年生きるにしろ、新しい「夫婦の型(かたち)」を作っていかねばと思います。

家内の故郷、信州の両親も高齢。今までは、弱ってきた父を置いて、夫婦2人で信州を訪ねることはできませんでしたが、これからは2人で行くこともできるでしょう。

結婚当初から、僕の両親と同居をしてくれた家内にも感謝。「いつでも、信州の親が病気の時は、時間が許す限り、高知のことは心配せず、行っておいで」と、伝えています。

残るは、男2人、女1人の子どもたち、3人とも県外。29歳を頭にまだ未婚。そもそも結婚できる「甲斐性」がまだありません。そろいにそろって3人とも美術関係。「食えなくて当たり前」の世界ですので、「残念だけど、帰ってきても、仕事はないよ。都会にしがみついてでも、生きよ!」と「厳命」しています。

高知に帰ってきて、送り出す時は「今度はニューヨークかパリで会おう」と「ハッパ」!をかけていますが・・・・実現したら、面白い。

死んだ父も僕もフツーの「市井人」。フツーに生き抜くことが、どれだけ難しいことか。

「歴史」は、こうした無名の人々の「積み重ね」。「理論」や「法則」では掴めない「人々の重さ」を感じます。


写真は数年ぶり?にそろったこどもたちと僕


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posted by うんちくウメッチ at 19:39| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月18日

父が逝きました

11月18日午前9時1分、4昼夜、「誤嚥性肺炎」と闘った父が、とうとう亡くなりました。

満85歳、一昼夜、ベッドのふちで姉と2人で励まし、見守りましたが、力尽きました。

最後まで、苦しい呼吸でしたが、乱れることもなく、穏やかな臨終。姉と2人で父の手を握りながら、医療機器の波長がフラットになるまで父により添えたことが、せめてもの慰めです。

85年の生涯。立派に誠実に生きた素晴らしい人生だったと思います。

大正15年出生。戦争中に「国鉄高知機関区」に入り、戦後もずっと「国鉄マン」として40年勤めあげました。

「日本が戦争に負けた日にも、汽車は時間どうり走っていた」というのが「口ぐせ」であり、「誇り」でした。

父については、また、後日、語りたいと思います。この父の子として生まれたことに感謝。

写真は父と姉 11月14日撮影

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posted by うんちくウメッチ at 17:59| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月17日

父が危ない!


9月末に「老人性肺結核」が発見されて、治療中の父は、結核の症状はレベル8から1まで下がり、だんだん良くなっていました。

ところが、11月14日、「誤嚥性肺炎」にかかり、14日の晩には医師より「今夜がヤマです。体力との勝負ですが、非常に危ない。親族や会はしておいたらいい人には連絡をとった方がいいです」との「宣告」。

結核は順調に回復に向かっていましたが、「胃腸炎」に感染。「誤嚥」により「おう吐」、せっかく良くなっていた「患部」に「吐しゃ物」が感染し、「肺炎」に。

14日の晩には20人近くの「親族」が駆けつけました。僕も姉と徹夜で見守りましたが、なんとか持ちこたえました。

しかし、今も「発熱」の繰り返し。点滴の「抗生物質」が感染をどれだけ抑えることができるか?父の「体力」との勝負が続いています。

14日から2日間、仮眠を取りながら24時間体制で見守りましたが、まだ楽観できない容態が続いています。

71歳で死んだ母も、心臓手術は成功、「明日は退院」という前日の早朝、病院より「容態が急変しました」との連絡で駆け付けました。必死で電気ショックを試みていましたが、すでに遅かったです。

父は満85歳、歳には不足しませんが、せっかく見つかった「結核」も克服しながら、ここまで来ましたので、こんな「事故」みたいな「肺炎」で死なすわけにはいきません。

今は病院より、また、あの「悪夢」のような「急変しました」との電話がかからないことを祈るばかりです。こんな形で親2人を亡くすわけにはいきません。

しかし、さすが2日間の「半徹夜」は、この僕でも堪えます。
昨夜は安定していましたので、病院に任せ、帰って思い切り寝ました。布団に入って「バタンキュー」。

こんなことは、学生時代、「卒論」が間に合わず、3日間「半徹夜」を敢行して以来。書き上げた150枚の原稿を抱え、お茶の水で降り、駿河台の校舎、締め切り6時の事務室めざして、ふらつく足取りで駆け込んだ時、事務室前には、M先生が待ち構えてくれていたなあ・・・・お世話になったM先生も今は亡い。

あの時もしんどかったけれど、あれから30年以上たった、今の僕の「体力」も、すでに「限界」。

「覚悟」はできていますが、すべては「運」に任せるしかありません。

写真は父と僕 14日夕撮影

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posted by うんちくウメッチ at 20:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もろさわようこさんが帰っています。

今や「高知市民」となったもろさわようこさんが、11月4日から21日まで、僕の勤めるホームに帰っています。

10月には出身地、長野県の佐久市望月で、「歴史を拓くはじめの家」結成30周年の会を持ち(http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_198523)、全国各地から500人が集まっていました。

東京の家を処分し、1万冊を超える膨大な書籍や資料は望月に移し、ボランチィァの人たちによって整理中とのこと。

民俗学、女性史、社会問題、「平民社」「青踏」関係、景山英子、山川菊枝、平塚雷鳥に関する全集や資料など、後を継ぐ人たちが自由に閲覧できる保存をめざしているようです。
今回は集会を終え、書籍の整理も目途がついたとのことで、21日まで高知で暮らしています。

もろさわさん、ワープロは執筆に使っていたようですが、今はパソコンに挑戦中。
「自分でやれることは、ひとに頼らないの」

87歳に見えない「若さ」は、こうしたチャレンジ精神がもたらすのかもしれません。高知では送った荷物の整理をしていましたが、高知のワンルームでは書籍や資料もたくさん置けないので、執筆は信州が中心のようです。

21日からは沖縄へ、生まれ故郷の信州、高知、沖縄と動き回れるファイトがすごいです。

写真はパソコンに向かうもろさわさん

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posted by うんちくウメッチ at 20:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

嗚呼!100年前から全国最下位   それよりブータンめざせ! 

今日も「生産出荷額3年連続、全国最下位」と、TVのローカルニュースが吠えていましたが、工業生産額も県民所得も、国体の総合順位、全国学テも、と、わが高知県の「順位」が地元の新聞に取り上げられない日はありません。

しかし、そんなことは何も最近のことではなく、高知新聞の前身『土陽新聞』をめくっていたら、明治41年(1908)の記事も同じ。
『我國民の所得  高知県は最下位』(明治41年2月8日記事)

それにしても、この100年間、何をしてきたのか?

最下位が下から3,4番になったからといって、それほどうれしいことでもありませんし、県教委など全国学テの結果が何番になればうれしいのか?

わが県民は、そんな「数字」や「順位」に100年前から、なんら意味を感じなかった「賢明」な県民?・・・・いや、そんなことはない?

しかし、この100年、「追いつけ」以外の価値観を持っていたら、もっと面白い「郷土」や「県民」になっていたでしょう。

職場のK所長は元、県庁の商工労働部長。役人生活のすべてを「最下位脱出」に取り組んできましたが、彼曰く「高知県民は全国最下位といっても、あまり気にしないというか、県民の半分はそんなこと知らんのやないか?」「それより、GNH(国民総幸福量)で9割の国民が「幸福」と答えたブータンのような県をめざしたほうがいい」と「診断」。納得です。

明治41年は、日露戦争も終わり、借金に借金を重ねた「戦費」の返済に苦労した「大増税」時代。国民にとってはまさに、生きるのがやっと、急激な近代化の矛盾が噴き出した頃です。

何か、「3,11」後の現在に似ている気がします。

この後、歴史は教科書的には「大正デモクラシー」を迎えますが、国民の生活全般は「大正でも暗し」でした。

100年変わらなかった「順位」は、変えようがありません。変わったところで知れた順位でしょう。それよりも、「最下位」が悲観するほどのものではないと誇れる、「新しい価値」を作り出す郷土にしたいものです。「3,11」はそうすべきことを教えてくれました。

古い新聞から学ぶことは多いです。

写真は『土陽新聞』明治41年2月8日紙面


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posted by うんちくウメッチ at 02:22| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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