2011年12月21日

ゼロ戦乗りの回想  アメリカの考え方に驚く

11月に入所したMさん(90歳)は、元、ゼロ戦のパイロット。南方のトラック島で曹長(終戦時は少尉)。お昼の時間に同じテーブルで、時々、戦争当時の話を聞き出しています。

Q 訓練はどこで?
A 大分の柳ヶ浦じゃ。(大分県の宇佐の海軍航空隊)

Q トラック島へはいつ?
A 昭和18年の3月

Q おもに搭乗した飛行機は?

A ゼロ戦(本人はレイ戦といいます)の52型

Q 不時着したことがあるそうですが?

A いつも自分の載っている機に燃料を入れてくれたことを知らず、別の機(通信士と2人乗り)で偵察任務に出たため、それが自分には伝わっておらず、燃料が途中でなくなり、サンゴ礁の外の小島の浜辺に命がけで不時着した。

Q一番驚いたことは?

A 撃墜されたアメリカのグラマンが、ほとんど壊れないまま回収された。その機体を見た時、アメリカの飛行機は金属部分は磨いたりせず、切断面など、ささくれだっていた。まるで,で
きたばかりのような仕上げだった。日本の飛行機は一機一機、きれいに磨いていたが、アメリカは、そんなことをせず、たくさんの飛行機を作っていることを、目のあたりに見た。エン
ジンは馬力も強そうで大きかった。
軍の上層部にこのことを報告したが、時すでに遅かった。アメリカの物量の凄さや考え方に驚いた。

Q 昭和19年2月のトラック島空襲で飛行機は失いましたよね。

A 終戦の時、飛べる完全な飛行機は一機だけあった。燃料はたくさん残っていた

Q 復員はいつ?

A 20年の12月25日に横須賀へ。米と麦を少し貰った。東京に出て、上野の山から、丸焼けの東京を見た。皇居のお堀で鯉を釣っている人が「戦前は釣ることができなかったので、鯉も大きくなっていますわ。」と、釣りに一生けん命だった。食うに食えない時やったからねえ。戦争に負けて、皇居のお堀の鯉を釣っても、誰も言わん時代やった。

一定の性能を維持し、機械で大量生産された戦闘機をおしげもなく投入するアメリカ。
一方の日本は手作りに近い戦闘機をピカピカに磨いて投入。歩兵は明治時代に作られた菊のご紋章入りの三八式歩兵銃を命よりも大事にすることを教育される・・・
Mさんの話から戦争の実相を教えられます


posted by うんちくウメッチ at 21:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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