2012年02月29日

「教師」を再開?

この1月から、高知市教育委員会のやる「朝倉チャレンジ塾」を手伝っています。

経済的に街の「塾」に行くことができない中学生を、週2日、夜7時から2時間、補充的な勉強の面倒を見ています。秋から始まり、市内5か所で開かれているようです。

中学3年生の参加もあり、この2カ月は高校受験に向けて、社会科の「特訓」でした。

受験生は意欲的な子どもが多く、全員、前期入試で希望の高校に合格、今は1、2年生中心の補習です。
「行政」が、「塾」と名付けて、無料で補習をすることに、高知の深刻な「低学力」の実態が現れています。

「そこまでしなければならないのか」という、思いもしますが、基礎がわからず、そのことが、すべての教科に影響し、「学びからの逃避」が、行政も「放置」できない、高知の教育実態です。

県民平均所得、200万円に足るか、足らないかという経済状況では、街の有料の「塾」にはやることができず、「貧困」が「低学力」に直結する、いやな世の中です。

しかし、フルタイムで仕事をし、週2回も夜間に教えることは、少々,しんどいです。やっぱり、「歳」ですし、正直、身体を休めたい。
春からは、今の仕事内容が変わりそうですので、この手伝いも3月末までにしようかと考えています。

1月からは、3回、「朝倉三町解放子ども会」の小中学生に、「差別の歴史」や3月3日が「全国水平社結成90周年」にあたることから、水平社がどうして結成されたか、子どもたちを指導してきました。

「差別の歴史」学習では、司修さんの傑作『河原にできた中世のまち』(岩波書店1988年)を使い、中世の「けがれ」や「河原者」について、学びました。
従来の江戸時代の「身分制度」から「差別」を考えることだけでは不十分だと、以前から考えていたことの反省です。

獅子ヶ谷書林の店主も評価しているように、この『河原にできた中世のまち』は歴史絵本(?)として、よくできています。これを超える絵本は、まだ知りません。

網野善彦さんが、中世の姿を書き、それに基づき、司修さんがよく、「絵本」として取り入れていると思います。
授業では、絵本の一部を、カラーコピーし、こどもたちに持たせ、何が描かれているか、こどもたちに問いかけながら、授業を進めてみました。

この絵本は、1989年に「産経児童出版文化賞」をもらったように、網野さんの、確かな歴史を見る眼で、司修さんの「画」が光ります。20年以上前の「絵本」で、すでに絶版になっていますが、この本はぜひ再刊してほしい。

この3月3日は、「全国水平社」結成90周年です。この日は僕の勤める施設に、大きな「水平社宣言」を外壁に張る予定。この手書きの「宣言」は「識字学級」で学んだ「おとな」が書いたもの。

「差別」や「貧困」ゆえ、学校に満足に行くことができなかった、6、70代の人々もいます。昔の「識字学級」は、明治、大正生まれが中心でしたが、現在は昭和世代が中心です。

今は「学校」へ行って、補習的な「チャレンジ塾」まで、保証される時代となりました。
「差別」や「貧困」から、「学び」から見捨てられた昔とは違っています。
「チャレンジ塾」は、課題や改善点は多いですが、「福祉」と「教育」が連携する、こうした「学力保障」は、継続して続けるべきでしょう。


写真は「識字学級」生による「水平社宣言」  歴史を旅する絵本  『河原にできた中世のまち』(1988岩波書店) から
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2012年02月25日

久々の21世紀「八朗学級」

24日の夜は、久々の「八朗学級」。今夜の講師は詩人の林嗣夫先生。

ちょうど、獅子ヶ谷書林のT店主が先生の『詩集土佐日記』を取り寄せ、その詩のなかに自分の名が出ていると書いていました。偶然です。

今回の「授業」の題は「3,11以後と、山尾三省のこと」

先生は、あの地震と津波、原発事故から、ずっと「科学」や「文明」について考えていたようです。

授業は山本義隆、池内了、中沢新一たちの論考を紹介しながら、詩人山尾三省の『銀河系の断片』(幻戯書房2009年)から、かれの生きかたや思想について学んだことの報告でした。

「彼(山尾)はアメリカでの同時多発テロの2週間前に亡くなった。ほぼ同じ世代であり、わたしは約10年生きのびて75歳になっている。そろそろ公の仕事もおしまいにし、その先の生き方も考えなくてはと思っていたら、大震災や原発事故が起き、現代社会に大きな亀裂が走った。ちょうどこのころに山尾三省に出合うということは、偶然であったが、引力にも似た必然を感じてしまう。」(同人誌『兆』152号「「生きかた」の自覚 山尾三省のこと」)

林先生、この春にはG高校の「国語講師」をやめ、51年間の「教師人生」を終えるとのこと。
振り返ってみたら、僕たちが習った頃は、まだ30代前半。若かった。僕はわずか「29年」で教師をやめましたが、先生の「51年」には、言葉もありません。


山尾三省  「一日暮らし」

海に行って
海の久遠を眺め
お弁当を食べる

少しの貝と少しのノリを採り
薪にする流木を拾い集めて   一日を暮らす

山に行って
山の静かさにひたり
お弁当を食べる

ツワブキの新芽と少しのヨモギ
薪にする枯木を拾い集めて   一日を暮らす

一生を暮らす  のではない
ただ一日一日
一日一日と 暮らしてゆくのだ


「「一日暮らし」というのは、“その日暮らし”ということではない。正受老人という人の言葉に基づいているという。死ぬまでに何かしよう、と考えていたら結局なにもできずに終わってしまう。一日一日をよく暮らす(完成させる)工夫をすることが要だ、という意味のようである。(林 前掲書)」


こらっ!林先生の「弟子」であるT店主よ。最近のお前の「一日暮らし」とは何や!(蛇足です。ゴメン)

写真は「八郎学級」の林嗣夫先生  

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追悼 「とんちゃん」のオトーサン亡くなる。


高知の名物酒場であった「とんちゃん」の創業者、吉本健児さんが、2月24日、朝早く、亡くなりました。104歳、大往生です。
このブログでも「とんちゃん」のことは取り上げましたが、それを見た方(平本さん)がコメントを入れて下さり、知りました。平本さんが、どんな方かは知りませんが、感謝。

元「とんちゃん新聞」編集長竹内直人さんから、とんちゃんのオトーサンが重態だとは聞いていましたが、やはり、残念な結果となってしまいました。

吉本のオトーサンには、ほんとうにかわいがってもらいました。101歳まで、時々は「とんちゃん」2階の「指定席」でお客を眺めながら「聖書」を読んでいました。

こんな時は、必ず、竹内さん、森本忠彦、島村義一先生(この2人は絵描き)も一緒で、ここで飲んでから、近くのオトーサン行きつけの「銀」(スナック)で、カラオケ。
我が家の「書庫」の落成祝いにも、来てくれました。

オトーサンが僕につけたあだ名は「ガソリンをしょった男」。若い頃の「熱血」ぶりを評してでしょう。それとも、いつ火がつくか、危険極まりない男という意?

酒の飲めなかった僕が修行したのも、この酒場。「常連」とは言えない「出撃回数」でしたが、そこそこ飲めるまでには「成長」しました。

なにより、お酒の合間に聞いた話は「人生勉強」となり、いつも「元気」をもらいました。これが一番よかった。

吉本のオトーサンありがとう。やすらかにお眠り下さい。
今夜の「前夜式」に行ってきます。   
PS 
今夜の式は「救世軍」に所属するクリスチャンだったオトーサンにふさわしい式でした。ブログにオトーサンの死去を知らせてくれた平本さんは、なんと、今夜の式で祈祷された、救世軍西日本連隊長 平本宣広さんでした。式次第に平本という名があり、ご本人に確かめますと、「私がブログを見てお知らせしました」とのこと。全国に、こんなブログでも読んで下さる方がいるのに驚き、いや、感謝。

写真は今夜の前夜式

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2012年02月10日

加藤周一はおそろしく鋭い

亡くなって4年もたつ加藤周一(1919〜2008)さんの著作や講演集が、よく出ています。
晩年は「九条の会」の呼びかけ人の一人でしたが、亡くなってから、改めて加藤さんの「言葉」が人々の「共感」を得ているようです。

最近『ひとりでいいんです 加藤周一の遺した言葉』(講談社2011,)を読み、やっぱり凄いなと、あらためて再認識。

「とにかく、日本人には「人間一般」という考え方が普及していないんじゃないですか。「人権」といっても、じっさい「日本人権」でしょう。「人間」で想起されるのは日本人じゃないでしょうか」

林達夫や渡辺一夫についても、僕など、そこまで考えつかない「鋭さ」を見せつけられました。

例えば林達夫が戦争中、「沈黙」を守りながら(加藤はそう書いているが、実際は林達夫も政府の海外宣伝雑誌の編集顧問的な立場にいたこともある・・・・U原)、「園芸」に没頭していたことをとらえて。

「林さんの場合「沈黙」が抵抗だった。それで、庭にラベンダーを植える。ラベンダーは外来種ですから、これは万世一系の純血主義に対する抵抗です。つまり、外来種だろうと日本の土に根を降ろすことができるということで、思想の普遍主義を表現していた。」

「渡辺先生のお宅は本郷にあったんですが、・・・・ラテン語を書いた木刻レリーフが掛っていた。

Odero si potero できれば憎みたい
Si non   さもなければ
Invitus 反対に
Amabo 愛するだろう

渡辺先生には渡辺先生の「日本」があり、その「日本」を愛し、そして、軍国主義の「日本」とその戦争を支持する「日本」を憎んだ・・・・といえば、整理された話で、現実には、そのふたつの「日本」は重なる部分がありますから、内面での葛藤は強いものだったはずです。したがって、「できれば憎みたいが、そうでなければ、愛するだろう」という告白になったのでしょう。」

最近『林達夫とその時代』(渡辺一民著1988年岩波書店)が復刊されたり、加藤や渡辺一夫が取り上げられたり、みんな暗い「戦争の時代」を潜ってきた「知識人」、それも故人。

混迷を深め、閉塞感に満ち、若者も何か「元気」のないこの時代。恃むべき「知識人」も見いだせず、なぜか、落ち着かない・・・・。
この国の「歴史」では「震災」の後、いい時代はありませんでした。やっぱり今は「戦争前夜」か?

若い頃、朝日新聞連載の『山中人間話』(福武書店1983年、のち連載は「夕陽妄語」へと続く)で加藤は「日本の保守化は、アメリカの場合ほど大きな影響を世界に及ぼさない。しかしアメリカの場合とちがって、国内の民主主義を殺すことになるかも知れない」と警告しています。忘れられない言葉です。

僕の大学時代は、すでに、70年前後の「熱気」はとうに薄れ、若者が社会や政治に「異議申し立て」することが「カッコ悪い」、「おとなしい時代」になりかかっていました。そんな時、平凡社の『林達夫著作集』7巻(1971年〜)は、直接には政治を語らず、文学的,比喩的な表現を通じて、暗に「社会を視る眼」を鍛えてくれました。

「もの言うなら声低く語れ」と諭してくれたのも彼です。

今、本棚にまとまって残るのは、林達夫、加藤周一、竹内好、森有正、橋川文三たち。


写真は『ひとりでいいんです』(講談社)、『林達夫とその時代』(岩波書店)

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posted by うんちくウメッチ at 22:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月09日

追悼 石元泰博さん   「異端」でいい。

2月6日、高知出身の写真家、石元泰博さんが亡くなりました。90歳。
地元新聞でも大きく報じられ、数人の関係者の記事も出ました。

昨年11月、『写真家・石元泰博の眼−桂、伊勢」が出身地の高知で開かれたことが、せめてもの慰めとなってしまいました。

ドイツのバウハウス(シカゴへ亡命)のモダニズムを身につけた石元さんは、戦後の日本に帰ってきて(後に日本国籍取得)活動しますが、「リアリズム」が主流の日本では、「異端」の存在でした。

35ミリの小型カメラ(ライカ)を使った「シカゴ」シリーズは日本人離れの「カメラアイ」で評価されましたが、活動の主舞台は「大型カメラ」(たしか、スイス製のジナーを日本に紹介?)による平凡社の雑誌『太陽』での活躍や、仏教美術の曼荼羅図、桂離宮や伊勢神宮の撮影でした。常に写真界の「異端」を歩き、「主流」や「流行」とは外れていました。
そのため、「高知県展」の審査員など、ほとんどやっていないと思います。

高知県立美術館は、石元作品さんの作品のほとんどの寄贈を受けています。何度も書いていますが、「企画展」をやることも大事ですが、「常設展」で、作品展示をすべきです。
生前、故人は、どこよりも、出身地の高知に残したい「遺言」を実行しました。

その「遺言」に応えて、「石元泰博記念館」は財政的にも無理でしょうが、現在の手狭な「高知県立美術館」を改装してでも、「常設展示室」は作るべきです。どうしても無理なら「常設展示コーナー」を確保すべき。

もともと土佐人は「常識」を外れた「非常識」が得意。既成の「価値」を尊ぶよりも、「異端」に価値を見出し、誰もやらないことをやる「県民性」?。言ってみれば、物事の「概念崩し」が「得意分野」だったはず?

しかし、この「得意分野」の「漫画」さえ、まだ、県立施設への保存、収蔵はされていません。県立の「漫画記念館」も無いし、美術館には「漫画展示コーナー」すらありません。

海洋堂のフィギィア館は宮脇さんが自費で建てたものですし、藁工倉庫での「アール・ブリュット」は「志」でできたようなもの。「文化」は「行政」が手を出すと、碌な物ができませんが、それにしても「常識はずれの土佐人の良さ」はどこに行ったのか?

あの「絵金」も、かつては「忘れられた存在」でしたし、「坂本龍馬」も似たようなもの。すべて「県外人」の外からの「再評価」だったと思います。土佐人は、自分たちで、もうちょっと「智恵」をひねり出すことは不可能?

いつも「全国最下位クラス」の「学力」が、こんなところにも「影響」していないことを願います。いや、「上位」クラスに入って、「常識」人間ばかりになるのは、もっとツマラナイ。

学力」が「点数」だけでは、土佐らしくありません。
「感性」は「点数」だけでは生まれません。



写真はライカを持つ石元泰博さん(『季刊クラシックカメラ』�7 2000年)より

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posted by うんちくウメッチ at 19:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

植木枝盛 「憲法草案」出てくるか?


今日の朝刊に植木枝盛邸のふすまの裏張りから、枝盛が書き写した可能性のある文書が出てきたと、報じられていました。

昨年、市内、桜馬場に残っていた植木枝盛邸は老朽化が進み、書斎だけを自由民権記念館に移築し取り壊されました。その時に持ってきた「ふすま」は民権記念館のスタッフにより、「下張り」を一枚一枚、薄皮をはがすような作業が続けられています。枝盛の父の書状は出てきていましたが、気長な作業から、ついに今回の「発見」となりました。

枝盛邸のふすまの下張であること、枝盛の「筆跡」に似ていること、『枝盛日記』にこの書き写した「本」を後に購入したことが記されていることなどから、今回の「発見」を枝盛筆写の「根拠」としています。おそらく間違いないでしょう。

数少ない自由民権記念館スタッフは日常業務をこなしながら、おまけに気長な「下張はがし」作業を続けていますが、今回は「大手柄」。

今後、どんなものが出てくるか? ひょっとすると『大日本国国権案』の「下書き」や「草案」が出てきたら、「民権運動史」の書き換えを求められる「大事件」?となります。

不朽の名著『植木枝盛研究』(1960年岩波書店)を書いた家永三郎先生は、取り壊された枝盛邸の書斎に泊まったと記していますが、まさか「ふすま」をはがすことなど想像もしなかったでしょう。

中江兆民は「岩倉使節団」の大久保利通に頼みこんで「押し掛け留学」でフランスに行きますが、枝盛は学校にも行かず、「独学」で、あの『東洋大日本国国憲案』を書きました。
当時のさまざまな「翻訳書」を勉強した努力の結果ですが、あの「抵抗権」まで入れた「憲法案」に行きつくまでには、相当の「試行錯誤」があったと想像されます。

その証拠が「下張」から出てきたら、それはそれで、家永三郎先生も「本望」でしょう。

「解剖学的作業」(?)を進める民権記念館スタッフに「拍手」。


写真は解体前の枝盛邸(北裏側)と 新聞記事(高知新聞2月9日朝刊)

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posted by うんちくウメッチ at 19:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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