2012年01月27日

久しぶりのI古書店

福祉施設は年中無休、職員は1月に一度は土曜か日曜に勤務します。そのかわり、普段の日が休み。

散髪がてら、久しぶりに帯屋町の!古書店へ。
店主がおられ、雑談。秋に下の息子が京都から帰っていた時、顔をだしていたようで、「息子さんは、なかなかの本好きですね。ちょっと、普通は買わないものを選んでいましたよ」とのこと。

1昨年、「I書店に行ってみたら」と勧めたら、『多留保集』(稲垣足穂全集 全8巻 潮出版社)を見つけて、買ってきました。前から欲しかったようで、I書店で見つけて感激していました。

京都の古書店でも、探せばあると思いますが、高知のI書店の方が安いみたい。すっかり、「I書店ファン」になり、帰ってきたら、必ず、顔を出すようです。店主から聞かされるまでは、秋に寄っていたとは知りませんでした。

京都の北白川に住んでいますので、「恵文社」や、あの「善行堂」にも寄っているようです。

僕の「古本屋」デビューも、I古書店。中学生の頃、おふくろを引っ張り出し、『日本の歴史』(全26巻 中央公論社)をねだって買ってもらったのが始まり。
おふくろは、この「全集」に、ついでに『日本史辞典』(角川書店 旧版)を一緒に付けてくれと、粘って交渉。店主(現店主の父 故人)は呆れていましたが、おふくろの「哀訴」に「根負け」。この『日本史辞典』は今も愛用しています。

あんなに、おふくろが粘った様子を見たのは、他にありません。死んだおふくろに感謝。

息子が「本好き」に成長(?)してくれましたので、「オヤジの本」は、そのまま譲るつもりです。僕が死んでも、始末に困り、そのまま「ブ」などへ流れることは無いでしょう。好きな本を残して、後は処分してもいいです。もっとも、僕には「本」のほか、譲る「財産」などありません。

1月24日に買ったもの
「岸田劉生」岩波新書
「八木重吉とキリスト教」教文館
「 崇高なる者 19世紀パリ民衆生活誌」岩波文庫
「自由人の暮らし方 池内紀の仕事4」みすず書房


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2012年01月22日

写真もいいベン・シャーン

獅子ヶ谷書林の店主もベン・シャーンを取り上げていますが、今夜のEテレでも取り上げていました。

「写真小僧」でプロを目指していた頃は、アメリカの写真をよく見ました。
アメリカは早く「グラフ・ジャーナリズム」が発達し、『ライフ』に代表される写真情報誌は、「報道写真」を志す僕たちには、「お手本」的な存在でした。

キャパの第二次世界大戦、岡村昭彦、沢田教一、酒井淑夫のベトナム・・・そして僕もピュリッアー賞を取る・・・まあ、夢みたいなものですが、当時の「写真小僧」の「目標」でした。

1930年代、「世界恐慌」に陥ったアメリカは、荒廃した南部の農村地帯をFSA(農業安定局)のプロジェクトとして、カメラマンを多数雇い、記録写真として残しました。

ドロシア・ラング、ウオーカー・エバンスなどは、今でも「ああこの写真は見たことがある」と言われる名作を残しています。「記録」として撮った膨大な写真が、今では「歴史の証人」」として、大きな遺産となりました。こういうところは、アメリカは本当にエライ。

ある時、彼らに交じってベン・シャーンの写真が紹介されていて、「あれ、画家なのに?」と疑問を持ったのが「写真家ベン・シャーン」との出会いです。

1月号の『芸術新潮』はベン・シャーンが1960年に来日し、京都で1か月過ごした、その時の写真も掲載。
これは初めて観ました。なんでもない写真なのに、やっぱりうまい。

この時は有名な「俵屋旅館」に滞在していますので、この旅館に「入り婿」(?)で入ったアーネスト・サトウ(アメリカ生まれの写真家。美術作家 森村泰昌が京都市立芸大で写真を習う)が、旅館にいたはずですから、2人はどんな出合いをしたのか、あるいは無かったのか?

アーネスト未亡人の佐藤年さんが、1か月滞在したベン・シャーンの様子を少しコメントしていますが、はたして2人の「写真家」はどうだったのか?もし、出会いがあったのなら、聞いてみたい。

アーネストは「偉大な教師」でしたが、来日してからは、日本の写真の世界では現役のカメラマンをやめ、大学の教師になります。やや、「時代」に乗り遅れた気もします。彼が再評価されてきたのは、「弟子」森村泰昌の力が大きいです。

それにしても、ベン・シャーンは絵もいいですが、最後まで写真家としても、すごい眼差しを持っています。

写真は1月22日放映「日曜美術館」より「ザッコ&バンゼッティー事件」、FSA時代の写真など
京都の写真は「芸術新潮」2012,1月号より

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2012年01月21日

父たちの証言が本になりました。土讃本線を守った土佐魂

ややマニアックな『レイルマガジン』(http://www.rail-magazine.jp/rm/rm339/index.html)という鉄道雑誌が、2011年12月号で、高知の「土讃線」を特集しています。題して「災害多発線区 土讃本線を守った土佐魂」。

明治、大正、昭和と、鉄道は全国に張り巡らされましたが、四国山脈を抱える土佐は、最後まで鉄道は引かれませんでした。多度津、須崎間が全通したのは昭和10年。地方鉄道としては早くはありません。吉野川沿いの崖を削り、トンネルを掘り、四国山脈を貫く、難工事でした。
出来上がっても、「ドシャン線」と言われるくらい、災害に弱く、たびたび不通になりました。崩壊する崖を避けるため、トンネルを増やし、営業成績では追いつかない補修費用のため、常に「赤字」、もっとも維持が難しい「酷鉄」でした。

昔の政治家は自分の選挙区に鉄道を通すのが「代議士の実力」。誘致を巡って、政争が絶えませんでした。当時の新聞は、強引な誘致を「我田引水」をもじって「我田引鉄」と表現しています。
土佐出身の仙石貢(鉄道大臣、満鉄総裁)などは、僻遠の土佐などに鉄道を引くことよりも、先に通さなければならないところがあると、高知県への誘致には消極的だったと聞いています。

「吉田茂は土佐のためには、何にもやらなかった」と、逆に自慢する土佐人もいますので、
「土佐より天下、国家」という優先順位はほめるべきでしょう。いや、ほんとは欲しくても「やせ我慢」するところが土佐人の良さ?

選挙区の高知のことよりも、敗戦日本の復興、独立に汗をかいた吉田茂を、土佐人は、もっと評価してよいでしょう。

ただし、僕は、そんなオヤジを距離を置いて見た、英文学者、吉田健一さんの方が好き。

父は昭和16年春、国鉄高知機関区に入り、機関助士、機関士、戦後は検査係、指導係、四国支社、機関区の助役と進み、最後は高知機関区長で退職。40年間の「国鉄人生」でした。
かつて、蒸気機関車を運転した「機関士あがり」は、「罐焚き」で「炭塵」を吸ったせいか、若い頃の無理がたたり、80歳を超えたOBは少ないです。そのため、現場を知る「生き字引」的な父は、新聞などから、よく取材を受けました。

一昨年、編集者が来高、父たちから取材し、1年後の昨年10月発行。しかし、父には読みとおす体力は無く、ベッドサイドで僕が読んであげました。出来上がるのを見届けることができて良かったです。


写真は父の「機関車、鉄道コレクション」 今や「お宝」 
SLの気笛、 タブレット、ナンバープレートなど

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2012年01月20日

読書日録 1


昨年から、職場の帰り道、朝倉のブやK書店古書部が近く、けっこう頻繁にのぞいていました。

新刊の大きな本屋が、高知では少なく、「掘り出しもの」的な本は、ブで探すほうが面白い。

新刊本は本屋をのぞいたり、新聞や雑誌の書評、カタログで目を付けて購入しますが、正直、あまり買ってまで読みたい本は少ない。

また、教師時代に比べ、収入が激減し、おまけに「車」に乗り出したため、その費用もばかにならず、3千円を超える「新刊本」は、なかなか買うのに勇気がいります。

それに、もうすぐ60歳、「生きているうちに、これは読んでおこうか、どうしようか?」という、「判断」も入ってくるようになりました。それでなくても、「読みくさし」や「ツン読」の本が五万とあります。新刊書の棚の前に立つと、「買うより、今ある本を読め!」とのささやきが聞こえてきます。

まあ、死ぬまでに、どう頑張っても、あと3千冊も読めないでしょう。
「君は本を友として幸せだったか?」「本に代わる喜びはあったのか、なかったのか?」と問われたら、どう答えるか?

岩波『世界』2月号、連載『未完の戦時下抵抗』(田中伸尚)始まる。第1回は「屈せざる人 細川嘉六」、
田中さんの『大逆事件・百年の道ゆき』は『世界』に連載された後、加筆され刊行されました。連載中から、ずっと欠かさず読みましたが、これは良かった。今度もどんな連載になるか、学者の本を読むよりオモシロイ。

連載第1回が細川嘉六とは驚き。
学生時代、高知の戦前の社会・労働運動を調べるため、当時、品川にあった「大原社会問題研究所」に通いましたが、古い、ビラに交じって、細川嘉六収集の資料を見たのが、この人を知った初めでした。

基本文献『米騒動の研究』(全5巻 有斐閣 1961)所収の資料は、ほとんど細川が集めたもの。富山から起こったこの騒動が、高知にも波及して、騒ぎがあったことがわかります。高知の生んだ歴史学者、井上清先生たちの共同研究です。

2005年、日本自費出版文化賞大賞をもらった『米騒動の理論的研究』(富山県 紙谷信雄著)は、地元で地を這う緻密な研究が、大きく評価されました。紙谷さんに連絡を取り、著書を譲っていただきましたが、手紙と電話で熱心に米騒動について教えてくれました。

この2つの著書に基づき、僕も5年ほど前、自由民権記念館の特別展「戦前期 高知の社会労働運動」の資料集に「高知の米騒動」として書きました。

1月15日(日)、Eテレ「日本人は何を考えてきたのか(第2回) 自由民権 東北で始まる」を見る。
案内役の菅原文太さんは、昨年、高知に来て、番組にも出ていた公文豪さん(高知近代史研究会会長)と県内を回ったとのこと。民権記念館に移築保存した植木枝盛の書斎も紹介されていました。河野広中など、東北の民権家たちは、土佐に来て植木から学びました。

ゲストには、色川大吉先生も登場。先生、元気そのもの。やっぱり「金髪」?でした。

僕たちの学生時代は、日本近代史、特に自由民権期の研究は全盛でしたし、「色川民衆史観」は、新鮮な驚きでした。しかしながら、その後、この時代の研究は、火が消えたように、細り、話題とはなりません。卒論で自由民権を取り上げる学生も、ほとんどいないらしい。

自由民権の「地下水」を汲み上げたものが現在の「日本国憲法」。「歴史」から学べば、「押しつけ憲法」という考え方が、いかに根拠の無いものか。

今回の『世界』への連載といい、このEテレ番組といい、わかっていても、声高く叫ばれてこなかった「史実」に目が向けられてきた・・・そんな気がします。
こうした番組の取り上げ方は、「3,11」以後、ひとの生き方を含めて、日本の大きな「方向転換」を求めてなのか、「一過性」でないことを祈ります。
1月16日 朝刊報道
辺見庸の詩集『眼の海』(毎日新聞社)が高見順賞受賞。この人の本は、出るたびに読んできました。
最近は「作家」というより、社会への、鋭い問いかけが目立ちます。目を離せない「発言者」だと思います。

新年早々、本屋で「詩集」を見つけて購入。「詩人」でもあることに驚きました。
辺見は震災・津波の被災地、石巻の出身とのこと。


  死者にことばをあてがえ

わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
百年かけて
海とその翳から掬え
砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで



写真は
Eテレ番組での色川大吉さん
『米騒動の理論的研究』紙谷信雄著、
200部限定出版2004年 日本自費出版文化賞大賞受賞

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お詫び:店主のメール見落としによりこの稿アップが遅れました。
ありがちなこととは言えすまん。
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2012年01月19日

死んでも「鉄格子」のなか 戦前の秋水の墓の様子がわかりました

 地元に住む記録作家の金井明さんが、高知新聞に「赤鉄橋の時代と鈴木商店」という連載を載せています。鈴木商店を大きくした金子直吉は土佐出身ですが、あまり知られていません。

城山三郎さんが小説『鼠』で鈴木商店焼き打ち事件のことを書き、知られるようにはなりましたが、彼の全体像ではありません。地元では「金子直吉って誰?」というようなものです。今回、金井さんが、綿密な取材をして書かれていることに敬意を表します。

今日の朝刊の連載では、幸徳秋水のことが取り上げられ、戦前の秋水の墓がどんな状態であったか、当時の目撃者のスケッチが載っていました。

僕は、戦前は墓地に「監視」が付き、自由な墓参はできなかったと聞いていましたが、このスケッチのように、墓全体を完全に「鉄格子」で覆った状態であったことに「ここまでやるか」と、いささかショックを受けました。当時の「国家権力」の執念深さにゾッとさせられます。

死んでも、「檻」の中に閉じ込められていた秋水、おそらく、近づくことすら市民はなかったのでしょう。数少ない目撃者のスケッチは、画としては稚拙ですが、じっとたたずむことなどできず、足早に通りかかり、チラっと横目で見た「記憶」なのでしょう。そうしたことを想像しながら見た時、この「稚拙」さが、いっそう「真実」をあらわしているように思います。

昨年は秋水刑死100年。地元では復権をめざした取り組みが行われましたが、101年目を迎えたこの1月(1月24日刑死)に、このような「スケッチ」が紹介されたことは、意味があります。

写真は1月19日 高知新聞朝刊より複写
下の写真は現在の様子

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2012年01月15日

志しの早期退職

元、市役所職員のSさん。昨年9月末で高知市役所を退職しました。Sさん、お子さんが「障害」者。現職じぶんから、NPO法人を仲間たちと立ち上げ、「菓子工房マギステル・エスト・レネー」を2004年から開き、お菓子作りで、「障害」者の自立と社会参加をめざす福祉作業所を開設しました。

現在は市内の帯屋町と本町に、手作りクッキーとケーキのお店「レネー」がありますが、このNPOに賃貸する形で、現在、職場の隣に、「工場」と「お店」を建設中。

「障害」者の自立と社会参加は昔と比べると、進んできていますが、まだまだ「まともな賃金」をもらって、「障害」者自身が、「普通」に生きるには至っていません。

使用者側に「熱意」や「理解」があっても、多くは国の「補助金」に支えられた雇用で、自立した「安定経営」とはほど遠い「苦労」があります。

使用者として、胸張って「こんなに働いています」と自信たっぷりに話す「経営」が、裏の実態は「奴隷労働」に近い「搾取」であったり、「金儲け」の手段としての「障害ビジネス」すら出てきています。

行政は、こんな「裏」の実態は知っていても、自らで「雇用」することができないこともあって、「雇ってくれている」ことだけを持ちあげ、労働者としての「尊厳」など、ほとんど無視です。

Sさん、大きな夢に乗り出しましたが、地方で安定した「収益」を出し、「障害」者の尊厳や「普通」に生きることをめざすのは、並大抵ではありません。

僕は、次への「志」も無く、ただ、55才で早期退職しましたが、Sさんの早期退職は、親亡き後のわが子の行く末を憂えて、「このまま放っておけない、なんとかしなくては」と、たいへんな責任とリスクが予想されるなかでの「大事業」。その「志」の大きさに拍手を送りたい。

写真は建設中の「菓子工房レネー」工場  3月末完成予定

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2012年01月09日

やっと納骨、無事終わりました

8日は父の五十日祭、遷礼祭、納骨と済まし、やっと、「儀式」が済みました。

父方、母方、14家族27人が集まり、儀式の後は、土佐で言う「大お客」(おおおきゃく)
遠くは、横浜から駆け付けてくれた、父の長兄の長男も加わり、父方、母方の親族による「大宴会」。

これで、11月20日の葬儀から続いた、一連の「儀式」を済ますことができました。
今度は「相続手続き」や「お返し」の発送などが待っています。

11月の「1年祭」まで、「儀式」は続きます。1年を済まして、やっと、落ち着くというところでしょうか。今回は「家」の重みを実感しました。

「死者は生者を煩わせず」とはいきませんが、父の世代の慣習は、「喪主」として守りましたが、僕の世代、こどもの世代では、「葬式」のかたちも変わって行くでしょう。

少なくても、僕は父と同じことを求めませんし、僕の持つ「死生観」で、妻や子どもたちにやって欲しいと「遺言」しておきます。

写真は50日祭、埋葬祭、土佐式「お客」

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2012年01月06日

「死者は生者を煩わせず」とは、なかなかいきません

8日は父の五十日祭と埋葬祭、準備で大忙し。長女は東京から信州に来て、合流、次男は京都で拾ってもらって、3日、家内ら3人が帰ってきました。1月8日には、家に親族が集まり、その日のうちに、五台山の墓に納骨します。

墓地は、名刹竹林寺のすぐ近く、家から車で10分たらず。前は浦戸湾の絶景、春には「花見」ができます。墓地だけはここでよかった。家は地震、津波、水没の心配がありますが、
墓だけは、ここにいれば、安心?

県立公園となった五台山の墓地は今では、なかなか譲ってもらえませんが、昔は仏教でも、檀家でもない神道のわが家でも譲ってくれたようです。戦後、高知市の教育委員だった海老塚和尚の頃だと聞いています。和尚に直接、相談したら、あっさり承諾してくれたと、亡き父から聞きました。

五十日祭、納骨が済めば、ひと段落。しかし、「死者は生者を煩わせず」とは、なかなかいきません。
「ジミ婚」はあっても「ジミ葬」は、親戚,縁者の考えもあり、なかなか難しい。最近は土佐でも、葬式の考え方が多様化し、昔のしきたりにはこだわらないやり方も増えています。
ただ、父は、何事でも、「派手」なことは好きではありませんでしたので、葬式は、そのことを考え、できるだけ、質素にやろうと努めました。

それでも、けっこうな費用、「婚」は簡略化しても「葬」は、しないというわけにはいきません。お金のことは言いたくありませんが、新聞に死亡広告、会葬御礼を載せるだけで30万円少し、総費用は、まあ、上等の「新車」が買える金額。これを、どう考えるかは、ひとつの「思想」でしょう。

父の義弟、I叔父が亡くなった時、家族や僕たち数名で執り行いましたが、これは良かった。家内と「こんなお葬式がいいね」と感動したものです。

I叔父は「五台山の先祖の墓より、海か空に灰はまいてくれ」と、生前、よく冗談っぽく言っていましたが、奥さん、家族が、こうした「ひっそり」、「家族愛」に満ちた葬式を行ったのには感心しました。ただ、骨は五台山に埋葬しましたが、僕も死んだらこれでいいです。

もっとも、僕は、55才で早期退職した時、すぐに、「U原の退職を寿ぎ、鞭打つ会!」を30人ぐらいで、かまえて貰っています。その時「これは僕の生前葬みたいなものです」と、挨拶していますので、もう、葬式は不要、 今度、父が入る所に入れてもらったらいいです。

理想は、「死者は生者を煩わせず」といきたいものです。

posted by うんちくウメッチ at 21:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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