2011年08月27日

叔母の本が出たようです

8月26日の地元新聞に、家内の叔母(由井晶子)が紹介されていました。

叔母は沖縄の出身、沖縄戦が始まる前に九州に疎開、1944年8月、米軍の沖縄上陸が必至となり、沖縄の子どもたちは親と離れて、九州本土に疎開が始まりました。8月21日、米軍の潜水艦の魚雷攻撃で「対馬丸」は沈没。子どもだけで775人が犠牲になりました。「対馬丸の悲劇」です。伯母は別の船に乗っていて助かりました。

翌45年4月、米軍が上陸、祖母は沖縄戦で亡くなっています。

戦後、アメリカの施政権下、東京のW大へ進学、「反米活動」をしないことを誓約して、「留学」が認められたようです。

しかしながら、W大で、全学連の闘士である叔父(家内の父の弟、)と知り合い、結婚、叔父は「ブラックリスト」に載った活動家だったため、「新婚旅行」にも帰ることができなかったと聞かされました。当時の沖縄は「パスポート」のいる「外国」、「反米思想」の人間は「入国」が許されませんでした。

大学卒業後、「沖縄タイムス」社に入社、長い間、東京支社におりました。
叔父の死後、沖縄に帰り、最後は編集局長、女性の編集長が珍しかった時代(今もそうですが)、「女性編集局長誕生」と、話題になったこともあります。

ずっと、沖縄の基地問題をライフワークにしていましたので、今回、本(『沖縄−アリは像に挑む』七つ森書館 1890円)にまとまったようです。

琉球の歴史にも詳しいですし、『日本残酷物語』(宮本常一他著、平凡社ライブラリー  1995年復刊 全5巻)にも執筆しています。

東京時代には銀座の支社に寄って、話をしたり、信州で会ったり、沖縄に帰ってからも「新聞協会」の大会で「土佐」にも来たことがあります。

現役時代、いつも忙しかった叔母とは、じっくり話すこともなく、断片的な話ししかしなかったことが残念です。今でも、土佐から「沖縄」は、そう簡単には行けません。

僕の施設の「入居者」となった、もろさわようこさんが沖縄に滞在する時には会っているようですし、退職後は市民運動に参加して、元気にやっているようです。

東京支社時代、銀座にあったオフィスに寄った時、田中角栄さんが「番記者」に配っていた「オールドパー」を貰って「ああこれが、あの角栄センセーの好物の酒か」と、ありがたく(?)、飲み干しました。辞めた菅サンもこんなことしてた?

写真は8月26日 高知新聞夕刊より

P1040663_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 19:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月23日

「本物」見せます 植木枝盛のピンクの書斎

以前のブログ(1月23日)に書きましたが、8月20日、移転、復元保存をしていた植木枝盛の書斎が「高知市立自由民権記念館」に完成しました。

さて、どんな具合に復元できたか、見学に行っておりましたが、松岡館長(高知大名誉教授 日本近代史)から、「本物」の書斎の壁の一部(破片)をいただきました。

「見学会の時、庭に落ちていた瓦の破片を記念に拾ってきて「文鎮」代わりに使っています」と話したら、「それなら、あのピンクの書斎の壁の破片をやろう」と、いただきました。

松岡館長は、植木枝盛邸の解体工事で出てきた書斎の壁の破片を、そのまま捨てるのを残念に思い、数個の破片を集めていたようです。

「瓦も、ペーパーウエイトの大きさに割って、きれいな箱にでも入れて、説明書でも付ければ、記念館グッズとして売れますよ」と不埒な提案をしてみましたら、「そんなこと考えるのは、お前しかおらん」と返事が返ってきました。

僕など、あの見学会で、庭に転がっていた「瓦」の破片と、腐って落ちていた「雨戸の板切れ」を記念に持って帰るほどの「枝盛ファン」ですが、そんな「奇特」な者などいない?

「破片」を詳しく観察しますと、「ピンク」というより、落ち着いた「淡い赤茶色」という感じ。

松岡館長は「見学者の中にも、この壁の色を見て、田舎の家にそっくりと、感想を言ってくれる人もいて、この色は土佐では特別な色ではなかったようだ」と説明してくれました。

西洋の「ピンク」というより、日本独特の色彩だと考えた方がいいのかもしれません。

「坂本龍馬像」のある「桂浜」の「県立坂本龍馬記念館」は入館者が絶えませんが、「高知市立自由民権記念館」は、植木の書斎を復元、保存しても、入館者が増えることはそう期待できないでしょう。残念ながら、こと、入館者数において、「県」と「市」の差は大きいです。

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』がドラマ化され、お隣、愛媛、松山がにぎわっていますが、「大河ドラマ」では「明治もの」は人気薄、あいもかわらず視聴率稼ぎの「戦国もの」ですが、いっそ、山田風太郎の『幻燈辻馬車』をテレビドラマで見たいものです。TBSの『JIN』があれほどの人気でしたから、「明治もの」でも、あの荒唐無稽、破天荒な『幻燈辻馬車』は、きっと、高視聴率間違いなし!

いや「JIN」も龍馬が出ていたから、あの視聴率だったのか?

それにしても、「龍馬」は高知を助けるスーパーヒーロー!今の土佐には「アンパンマン」と「龍馬」しかない?


写真は復元された「書斎」と「本物」の壁の破片

P1040658_R.JPG

P1040661_R.JPG

posted by うんちくウメッチ at 19:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

「わたしから文字ははなれない」     Hさんの詩が教科書に載りました

となりの介護ホームに通ってきているHさんの詩が「中学3年生用社会科教科書」(公民分野)に載りました。
Hさんは貧乏で満足に学校に行けませんでした。
「貧困」と「差別」ゆえ、学校に行けなかったお年寄りたちは、今でも「識字学級」で「文字」を取り戻しています。Hさんも、その1人。

文字をしらないことは
生きていく、いみがない
しきじがっきゅうで
文字をならい
生きるよろこびを知った。
いまは、まるで
ぼんと正月が
いっしょにきたみたいな、
くもにのり
天へのぼったような
この気もち。
町をあるいても
テレビを見ても
私から
文字ははなれない。

「文字」を読めない、書けない「恐怖」のなかで、どれだけ苦労してきたか知れません。字を知らないことによって安定した仕事にも付けず、70歳を過ぎても働きづめで、わずかばかりの「年金」では、老後も安心して暮らせるお年寄りは少ないです。
若い頃の頃の無理な労働が、老後になって影響し、早くから「病気」を抱えている場合も多いです。

「解放運動」が「糾弾」や「もの取り主義」を脱して「福祉」に力を入れていることは大事です。「なんとかしろ」と言う前に「自前」で作りだす「智恵」が試されていますし、今は「解放運動」の新しい「質」が問われています。

この教科書を作ったK社(東京)は、中学1年生の「地理」では,馬路村の「ゆず」による「地域おこし」を取り上げたり、中学2年生の「歴史」では、植木枝盛と中江兆民を紹介したり、よく土佐のことを教科書に載せています。

10年ほど前、教科書の記述が「自虐史観」だと、もっとも「攻撃」を受けた教科書会社のひとつですが、それにも屈せず「良心」を貫いています。立派です。

衰退するばかりの「地方」ですが、教科書で、この「土佐」のことが取り上げられるのはうれしいことです。

悲しいことには、公民分野の「選挙の課題」で最多の「千葉4区」と最小の「高知3区」の差、2、31倍(衆議院)が取り上げられ.「一票の価値」が説明されています。厳しい「現実」です。


写真は24年度用教科書と該当ページ

P1040646_R.JPG

P1040649_R.JPG



posted by うんちくウメッチ at 19:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月18日

ある無名戦士の記録


自分の本は出したことはありませんが、他人の本の編集はしたことがあります。

 武市一二三郎著『おもひで ある兵隊蟻の記録』2002年自費出版。

 きっかけは著者武市さんの娘さんのN先生と同じ学校に勤めたことでした。社会科教師でしたので、「社会科自由研究」(自由民権記念館主催)の審査員をやっていましたが、ある時、お孫さんがおじいさんが残していた「従軍手記」を模造紙にレイアウトした作品『ノーモア新聞』が入賞しました。

 ある日N先生が「まだ、元気な父の「戦争手記」を子どもが発表して入賞しました」と話題にした時、「あの発表を入賞にしたのは僕です。よかったら、元の手記とスケッチを見せてくれませんか」と話し、『従軍手記』を見せてもらいました。

ビルマから復員してすぐ、粗末な大学ノートに思い出しながら書き込んだ手記は、こういう軍隊生活もあったのだなと思えるものでしたし、何より水彩スケッチが素晴らしい。

「このスケッチと手記を本にしてみませんか」とN先生に勧め、編集を引き受けました。
じっくり、手記を読みこみましたが、ビルマでもインパール方面には行かず、どちらかというと、農村の牧歌的な描写でした。
しかし、サイゴン沖で輸送船が潜水艦に狙われ沈没し、一昼夜、海で救助を待ったり、危険な目にもあっています。

編集中、九州の駅名が出てきましたが、正確を期すため路線図で確かめましたが、出ていません。JR九州本社に問い合わせましたが、不明。連隊があったところだから、今でもひょっとすると、宮崎県には自衛隊の基地で残っているかもしれないと想像し、自衛隊基地に電話、こういう事情で調べていると話したことがよかったのでしょうか、すぐに調べてくれて、駅名が判明しました(手記では三納代駅、現在の日豊本線、日向新富駅)。
3ヶ月念入りに読みこなし、編集作業は完了、N先生はボーナスの半分を使い、500部の本に仕上げて、父親へのプレゼントとしました。

黄色く変色した、粗末なザラ紙の大学ノートの鉛筆書きを読みこなし、場所や時間を確認しながらの編集作業は、勉強になりました。これほど本にするのに、役がかかるとは思いませんでしたが、編集のため『日本軍隊用語集』を買い込んだり、知らない旧軍隊のことを勉強できました。

題名の「兵隊蟻」は作家、古山高麗雄さんの小説から拝借、無名の特別な手柄も過酷な戦場体験もない「普通」の兵士の手記として、それしか思い浮かびませんでした。
 武市さんは復員後、市役所に勤務、残念なことに2年前亡くなりました。


写真は武市一二三郎(かずさぶろう)著『おもひで ある兵隊蟻の記録』
2002年9月自費出版

P1040643_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 08:07| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月16日

戦争文学を読む


戦争や平和の問題については、意識して、本を読んできました。

親戚には徴兵され、太平洋戦争や日中戦争に従軍した人もいますが、幸い、生還しています。もう少し話を聞いておくべきだったと思いますが、今になってはもう遅いです。

戦争体験でいえば、獅子ヶ谷書林の店主の父上は、「地獄の戦場」、ニューギニアから生きて戻っています。ほとんど生還者はいない過酷な戦場ですが、父上から話を聞くことはなかったです。店主のTも聴いていないようです。

父上はあまりの過酷さゆえ、語るべき言葉が無かったか、いや、聞くべき僕たちが若すぎたのかもしれません。

最近、高知出身のNさんが、地元の新聞でニューギニア戦線の敗走を語っていますが、土佐の兵隊は、この地獄の戦場で、たくさん死んでいます。

戦争や平和について考えるきっかけは、今思い出すと、中学3年の時、広島で、原爆資料館や原爆ドームを見たことでしょう。

その後、学生時代に「丸木美術館」で、丸木位里、俊夫妻に接したことも大きいです。当時は『マッカーサーのニ千日』を書いた袖井林二郎さんや『原爆民衆史』を書いた長岡弘芳さんなど、この方達から「耳学問」で学んだことは「僕の大学」です。

大岡昇平の『レイテ戦記』は長編ですが、夏になるとなぜか手に取り、これだけは2回も読み返しました。付録の地図を見ながら、読みとおすのは難儀ですが、この小説だけは2度も読んでいます。

古山高麗雄の一連の作品も好きです。『断作戦』、『龍陵会戦』『フーコン戦記』など、「弱兵」として生き延びた著者の体験を、晩年、一気に書き遺しました。
井伏鱒二『黒い雨』、野坂昭如『アメリカひじき 火垂るの墓、』原民喜『夏の花』など、若い頃読んだ文学は忘れられません。

しかし、「戦争文学」よりもルポや研究書を読むことが多かったように思います。
これは、中学時代、岡村昭彦さんの『南ベトナム戦争従軍記』を読んだのがきっかけでしょうか。
開高健の『ベトナム戦記』、石川文洋のルポ『戦場カメラマン』、岡村昭彦、沢田教一、「ライフ」の写真は、文学とは違った戦争を考えるきっかけとなりました。
僕などの世代は、ベトナム戦争が「戦争」を考える「眼」を養ってくれたと思います。

最近では田中伸尚さんの『ドキュメント昭和天皇』は詳しすぎて、読むのに疲れますが、綿密な資料で書きこんだ労作でしょう。各巻を少しずつ読み続けています。

色川大吉さんの『ある昭和史』は学生時代に出ましたが、この本は強烈でした。その後の自伝シリーズや、満州事変から昭和20年8月の敗戦までを、「アジア太平洋戦争」と記述することを提起したり、共感することも多く、今でも読み続けています。
「民衆」に視点を据えた「戦争」や「平和」を考える「眼」を学んだと思います。
これもなかなか読むのに疲れますが、児童文学者、山中恒さんの『ボクラ小国民』シリーズや、その後の彼の著作は学ぶところが多いです。

外国では強制収容所を生き延びたユダヤ人たち、フランクルの『夜と霧』、エリィ・ヴイーゼルの『夜、夜明け、昼』などは、ユダヤ問題を考えるきっかけを与えてくれましたし、
そんな関心から、ツェラン、プリモ・レーヴィなどを知ることができました。

太平洋戦争が終わってから、すでに66年、野坂などの「焼け跡派」でも、もう80歳。
それより上の「戦中派」は、もう90歳近く、大岡昇平、野間宏などの「兵士」世代はこの世にいません。直接体験のない「戦後世代」が、どう「戦争」や「戦後」をとらえなおすのか?
もう、「戦争文学」は成り立たないのでしょうか。映画は作られても、「文学」はどうなるのか?新しい作品を読んでみたい。

写真は書斎の書棚

P1040620_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 21:19| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月12日

今回は夕涼み会  「生まれ故郷」で終われない難しさ

前回のブログは「よさこい祭り」踊り子隊の慰問でしたが、12日の夕方からは、施設で夕涼み会を実施。土佐路は今週、連日33度を超す「猛暑」でした。

施設の駐車場にテントを張り、焼肉用のドラム缶を据え、焼肉、そうめん、五目御飯、デザートなどを準備し、ささやかな「夕涼み会」を行いました。
灼熱が冷えてくるのは、午後7時頃、それを待ってのパーティです。

施設職員の子どもたちも参加し、入居者、職員合同の催しとなりました。今年初めての企画でしたが、1人暮らしのお年寄りも、喜んでくれました。

最近、入所したMさんはまだ60代初め、脳梗塞を患い、杖で歩けるようになりましたが、片まひが残り、嶺北の方ですが、以前はお隣、徳島県祖谷地方のホームに入っていました。地元、高知の山奥では施設に空きが無く、お隣、徳島に、「捨てられる」(本人談)ように、行かされたとのこと。なんとか、望みがかない、最近この施設に入りました。

「まわりが認知症の入居者ばかり、話をしても、同じことの繰り返し、俺はこんなところで死ぬのかと、やりきれなかった。「脱出」できて、それだけで満足」(本人談)とのことでした。

あと、20年もすれば、「高齢化先進県」の高知県は3人に1人が65歳以上。今でも、高知に1人残されて暮らしてきた老人が、自分で身の回りのことができなくなって、「都会」の子どもの元に引き取られています。慣れない、食べ物も「水」も違う、友達もいない「都会」でますます「孤独」になり、最後は「特別養護老人ホーム」に入っていますが、「どこで死ぬか」、自分で決められない「死に場所」に、「人生の終い方」の難しさを思わずにいられません。

「病院で死ぬ」「家で死ぬ」かと「死に場所」が論じられますが、それよりも以前に「ふるさとで死ぬ」ことの難しさ・・・・
人生の終い方は、こんなところでも難しい。


写真は施設の「夕涼み会」

P1040614_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 22:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月10日

よさこい祭り本番

10,11日と「よさこい祭り」本番。ぎらぎら照りつける好天の中、「高知市役所踊り子隊」が、勤めている施設に来てくれました。市のチームだけあって、市立のホームや希望のあるところをまわっているようです。市のサービスとして、ありがたいです。

「よさこい祭り」も、今回で58回。僕の生まれた頃に始まりました。
こんな田舎の地方都市でも、1945年7月、「空襲」を受け、市街地は焼失、続いて翌年、「南海地震」でまたも壊滅、二重の災難で「戦後復興」は遅れました。

昭和20年代後半、ようやく市民が落ちつきを取り戻してきた頃、作られた「祭り」です。

はじめは、市役所や、銀行、企業が中心となり、ささやかに始まった「祭り」ですが、最近では、南国にふさわしい「和製」のカーニバルのような踊りで、若い世代には人気があります。しかし、お隣、徳島の「阿波踊り」のような、「歴史」と「伝統」のある祭りではありません。

僕など、この炎天下にわざわざ見に行くほどの興味はありませんが、本物の踊りを見たくても見られない、足腰の不自由なお年寄りには、こうした慰問はありがたいです。

「市役所踊り子隊」は、祭りが始まった頃の「正調」スタイルを守る伝統チーム。この「正調」スタイルは、昔踊ったお年寄りでも、「鳴子」を持って、飛び入り参加できる良さがあります。施設のお年寄りも3,4人が飛び入り参加しました。

しかし、よさこい祭りは8月の炎天下、今日の気温は33度。熱中症で死亡者が出るこのご時世、こんな「残酷」な時期の開催ははたしていつまで続くのやら?

土佐には山間、海辺、それぞれに伝統のある祭りがあります。
最近では、山間の奥物部に伝わる「いざなぎ流」の祈祷などが、研究者の関心が高いようです。今では土佐は「民俗学の宝庫」とのこと。

かつては、全国どこにもあった「祈祷」や「神楽」もすたれてしまい、今では、山間僻地で継承されてきた土佐の祭りが注目されているようです。

しかし、古い形態を守ってきた、そうした「祭り」も、「過疎」による若者の流出、高齢化、に歯止めがかからず、「継承者」がいなくなる危機を迎えていますし、滅びた「祭り」もあります。「よさこい祭り」は若者主体にシフトしていますので、そうした心配はないかもしれませんが、開催時期は、健康上、見直す必要が出てくると思います。



写真は施設の前で踊ってくれる「市役所踊り子隊」のみなさん

P1040603_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 18:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月05日

歳の取り方

介護施設に勤めていますが、僕の施設の入居者は、まだ、自分のことは自分でできる人々です。93歳のオバーチャンから、63歳の男性まで、脳梗塞や様々な病気で「杖」や「歩行器」に頼らなければ歩けない症状ですが、僕たちが、「買い物」に連れて行ったり、ヘルパーさんのお世話になっています。

どの入居者も各部屋にあるIH調理器で自炊をしたり、隣の施設で作る食事を食べたりしています。

ただ、足が不自由なため、自由に行動することができません。これだけは、人の世話にならなければできません。
そのため、デイサービスで交流する以外は自分の部屋で静かに過ごしています。

以前にも書いたことがありますが、「衣食住」すべて困らない生活ですが、それだけで人は歳を取ることはできません。「何もやることが無い」まま、毎日、1人で、ひっそり過ごすことは「認知症」を進め、「老化」が早まります。

不自由でも、人は「目的」「生きがい」を持って、「今日はこれをやろう」「明日はこうしよう」と、「宿題」がある方が、「元気」で過ごせるように思います。

Mさん(男)が脳梗塞の片まひを克服して、もう一度、車に乗れるよう、必死で回復トレーニングに取り組んでいるのも「行動の自由」を取り戻すためですし、今のMさんの「課題」「生きがい」です。

しかし、みんながMさんのようなことはできません。僕の父のように、やがて人の世話にならないと、どこにも行けないようになります。ある年齢になると、どう努力をしても回復が難しくなります。これも自然の姿です。

春先、施設の庭の「草取り」をしていると、2,3階のベランダから、「私もやりたい」とお年寄りが下りてきたのがきっかけでした。

庭の空き地に「肥料」を入れ、ささやかな「家庭菜園」づくりが始まりました。
きれいな「花」もいいですが、どうせなら食べるもの作ってみようと、トマト、キュウリ、ナスなどの苗を買ってきて「菜園」づくりが始まりました。

最高齢93歳のMさん(女)はスイカの苗を貰って、庭のふちに植えましたが、幸い、よく育ち、めでたく「収穫」、その喜びはなにものにも替え難いものでした。
Iさんのトマトやキュウリ、ナスも水やりを欠かさず「収穫」。これは自炊に役立ちました。

歳を取っていくことも「成長」、スイカやトマトがなることも「成長」、歩行器で畑に出てきて、スイカの成長を見続けてきたMさんは今、何を思っているのやら?

秋口になったら、また「挑戦」するようです。こうしたささやかな「喜び」や「課題」を作り出していくのも、僕たちの仕事です。入居者それぞれの具合(不自由な身体で、どこまでできるか)を考えながらの工夫が大事だと思います。


  写真は家庭菜園の収穫

P1040586_R.JPG

P1040589_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 22:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月03日

父のこと

85歳の父がますます弱ってきました。

12月に追突事故を起こし、胸骨骨折、その痛みから1月に入院しましたが、脳梗塞の大きな症状が発見され、3ヶ月入院。4月から週3回通所リハビリに通っていますが、足腰が弱り、しゃがんで立ちあがることができず、痛みで歩くのに難渋し、杖を離せなくなりました。

満85歳ですので、立派な「高齢者」ですし、この年齢であれば「認知症」も来て、もう家では介護できない人がたくさんいますので、足が不自由でも、まだ家で生活できるのはいい方かもしれません。

昨年の暮れまでは、自分で軽自動車を運転し、どこでも自由に行けた父が、今では数メートルしか歩けず、車にも乗れず、自力では杖を使ってせいぜい、玄関から門まで、それ以上は僕か家内が車に車イスを積み、病院や外出をサポートしています。

足腰の弱りは3ヶ月入院して筋力が衰えたことが大きいですが、入院中も筋力アップのリハビリはしていたわけですので、これは、もう「高齢」ゆえの仕方無いことかもしれません。

父の行動や様子があまりにも、昨年暮れまでの状態と違いますので、その落差にちょっととまどっています。父は、もう仕方無いと「諦観」していますが、畑も、庭仕事もできない父を哀れに思えてなりません。

もう85歳、一緒に国鉄に勤めた「同僚」は今では数人しかいません。
1926年、大正15年生まれ、昭和6年、数えの6歳で「満州事変」、昭和12年、数えの12歳で「日華事変 」、昭和16年、16歳で「太平洋戦争」、昭和20年、20歳で「敗戦」。
小学、中学、高校、成人式と、今の子どもたちが「平和」で当たり前に進む道筋のすべてに「戦争」がはさまっています。戦後生まれの僕など、これだけで、父が歩んだ道筋の「過酷さ」を思います。

家が貧乏で、高等小学校卒業後、「国鉄」入り、18歳で機関士の道を歩み、兵隊には取られませんでした。「1銭5厘」で「兵隊」は作ることはできても、機関車の運転は「特別技能」、兵隊より機関士でという「お国」の措置でしょう。

戦後は泣く子も黙る「鬼の動労」組合員、最後は高知機関区長でしたが、若い頃の「処分歴」もあり、「叙勲」の対象にはならず、もっとも「勲章など、貰えるか」という「天皇制反対論者」。

僕との食後の会話などでは「戦後、一番だめなのは、天皇制を残したこと」と言い続けてきました。

そう言ったからと言って、特別、何かをやってきたわけではありませんし、「市井」の中でひっそり生きてきただけです。ただ、今でも「本好き」、これは、僕が似たのでしょう。

「頭」の方はやや、「老化」がきはじめていますが、「頭」と「身体」の「老化のバランス」が取れず、一番困っているのは本人でしょう。

まあ、「頭」がしっかりしているのも、そう長くはないと思います。そろそろ、今のうちに、「自分史」を聞き出して、記録しておかねばと思います。

今まで、普通にかわしてきた、父との会話の中にも、けっこう、面白い話があります。
こうした「話」が僕の生き方や行動に影響していないはずがありません。


写真は父の「国鉄」コレクション
模型、レール、タブレット、ナンバープレート、蒸気機関車部品など


P1010355_R.JPG

P1010356_R.JPG


posted by うんちくウメッチ at 23:21| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。