2011年07月27日

読書日録 4

「日録」にはなっていません。「雑録」みたいなもの。

朝は5時半には起床。勝手に眼が覚めます。老化か?通勤が車に変わりましたので、8時前、家を出ます。
それまでは、庭と家の中の簡単な掃除、洗濯物干し、介護2の父の着替えや身体拭き、ポータブルトイレの始末が日課。

庭しごとが大好きな父は足が痛いので、変わって、それほど好きでもない息子がやらざるを得ません。どうせ地震と津波で持って行かれるのに?ここまでやるむなしさを感じながらの朝のひと時。

家内は7時過ぎ、学校に行きます。朝早く行って、夜は遅くまで残らない主義。僕がもっぱら、残りの家事を仕上げて家を出ます。
父は週3日は通所リハビリ、迎えがきます。後は家。

車になって、カッパを着て、覚悟して雨の中を自転車を踏むこともなくなりました。全くウソのようです。
教師時代、最後の赴任校へは、6時50分、家を出て片道12キロ、70分、山道を自転車を踏んでの通勤。暑い時も寒い時もチャリンコ、それしかなかった。エラカッタ!
車に乗らない頃は「最強のエコロジスト」を誇れましたが、車になって堕落。しかし、便利やなあ。

もうすぐ、満58歳、最近、寝床に入ると、30分もしないうちに寝入っているようです。
以前は、遅くまで、「寝床の読書」が日課でしたが、「歳」には勝てず。

教師を退職してから、本に使うお金も減りました。まあ、買ったまま、手つかずに近い本が腐るほどありますし、真面目に読みたい本も眠っています。「買うより、読む」です。

それと、生きたところで、せいぜい、あと20年?それも頭が働いてのことです。本だけで人生終わるのも、ちょっとさびしい。そうかと言って、そう、「欲」もありませんが・・・

最近読んだ本

『パウロからの手紙』太田愛人著(NHK出版 2009)

太田牧師の『羊飼の食卓』(築地書館1979  のち中公文庫)を読んでから、この人の「胃袋」と「自然観」に感動。「食卓」ものに続いて、今度は真面目な本。これは『新約聖書』で章節ごとに確認しながら熟読。放送原稿を本にしたものですから「神学者」の硬さが無くわかりやすいです。

お金の余裕があったら、夢はパウロが伝道に歩いた、エルサレムから小アジア、ギリシャ、ローマと歩いてみたい。すでに森本哲郎さんが『神の旅人 パウロの道を行く』(新潮社 1988)を書いていますが、人と同じパック旅行は嫌いですから、治安も交通の便も悪いこの地域を歩くのはパウロほどではなくても今でもたいへん、これはパックと違って金がかかるやろうなあ。森本さんは朝日新聞社持ち(?)で運転手付、うらやましい。それでもたいへんでしたが・・・。

『考える人 梅棹忠夫追悼特集』新潮社 2011夏号 �37)

昨年亡くなった梅棹忠夫さん(1920〜2010)を多角的に紹介。初めて見る写真も入り、論者も多様で面白かった。

僕が山登りや文化人類学に興味を持った頃、この人は「神様」でした。
フィールドワーカーにとって、彼の出していた『季刊人類学』に載ることは夢でした。

はじめて読んだのは、中学校の国語の教科書に載っていた『モゴール族探検記』(岩波新書の抜粋)。
彼を通じて、「文化人類学」という学問の世界があることを知りました。当時の田舎の少年は「歴史学」と「考古学」しか知りませんでした。

梅棹さんの代表作『文明の生態史観』(中央公論社 1967)は若い頃読みましたが、そういう見方もあるのか、という程度の理解、この人の「懐の広さ」はわからなかったです。

文化勲章も貰いましたが、アカデミズムの枠にはまらない活躍が評価されたのでしょう。高度経済成長期の政府が気に入る学者の一人でした。しかし、彼も京大人文研グループ、この研究所はほんとに多種多彩、ここが育てた(勝手に育った?)人材は「東大」では潰される才能でしょう。

今も発売されている『知的生産の技術』(岩波新書 1969)は、現時点で役に立つことは少ないでしょうが、考え方は古びていません。発想の転換やヒントを与えてくれます。40年以上、岩波が今でも出し続ける理由だと思います。

ただ、今回の『考える人』には息子の梅棹エリオさんが出てきません。あの「反逆息子」は今どうしているのでしょう。まさか、まだ「熱気球」?それとも「オヤジはオヤジ」?

写真は『考える人』�37号より
国立民族学博物館 館長研究室の氏 失明後も口述で多くの著書を残しました
『パウロからの手紙』『神の旅人


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2011年07月25日

永瀬 隆さんのこと

新聞の追悼特集記事に永瀬 隆さん(6、21死去 93歳)のことが出ていました。
戦争中、泰緬鉄道の建設現場の近くにいた方でした。

戦後は日本軍による奴隷労働にちかい捕虜虐待に心を痛め、連合国や労役に従事させられた東南アジア諸国との和解に取り組みました。

日本軍の仕うちを許せなかった元英軍捕虜の気持ちを解きほぐしていったのも、彼の活動が大きいです。「PERMIT、BUT NOT FORGET」(許そう、しかし、忘れまい)、タイ、カンチャナブリにある「戦争博物館」の表示のことば。

得意の英語力を駆使して、連合国の捕虜の著作を翻訳、たびたびタイに渡り、泰緬鉄道建設の実態をわたしたちに教えてくれました。

僕は父が国鉄職員、それも機関区にいましたので、戦争中の鉄道連隊の活動や、東京裁判で明らかにされた泰緬鉄道の工事については、関心がありました。
父の同僚には敗戦後、「満鉄」から引き揚げてきた人もいて、「あじあ号」のことなど、よく聞いたものです。

10年以上前、タイに行くことがあり、時間を作って、泰緬鉄道建設の拠点となったカンチャナブリを訪ね、そこから列車に乗り、あのクワイ河の難工事の現場を、この目で見ました。よく、こんな断崖に鉄道を付けたもんだと、驚いたものです。線路は当時のままです。

熱帯特有の風土病や栄養不良の捕虜に襲いかかった疫病で、連合国捕虜(主に、マラヤ、シンガポールのイギリス兵)で約2万人以上の死者。「労務者」(「ROMUSYA」という言葉はいまでも東南アジアでは通用する日本語)として強制労働に駆り出されて死んだアジア人死者は数万人と言われています。

カンチャナブリでは戦時中の橋や連合軍墓地、戦争博物館を見学。
おびただしい墓石の並ぶ連合軍兵士墓地ですが、アジア人労務者の墓はありません。
博物館は、当時の草ぶきの粗末な捕虜収容所を復元し、その中に模写された捕虜のスケッチが展示されています。見学者に日本人は少なく、イギリスの若者たちが多かったです。

僕はアジア諸国を旅する時、「アジア・太平洋戦争」の「戦跡」を意識して旅程に入れ、見てきました。そこで見たことや聞いたことは、その後の社会科授業にも「生の資料」として役立ちました。

歴史学者の色川大吉さんは、「太平洋戦争」では、中国や東南アジアに対する侵略が抜け落ちてしまうため、「アジア・太平洋戦争」と定義しています。この定義がもっと広がってほしいものです。

倒産(?)した社会思想社の「教養文庫」は、他社ではできない、いい本を作っていました。社名どおり、社会科学に強く、文庫本で、安価、面白い本がありました。今となっては、無くなったことは残念。

写真は2011、7,25 高知新聞
『イラスト クワイ河捕虜収容所 地獄を見たイギリス兵の記録』(レオ・ローリング著 永瀬 隆訳 教養文庫 1984)、
泰緬鉄道と戦争博物館,連合軍墓地          (U原撮影)

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2011年07月22日

わが家の「原田芳雄」お宝グッズ!


獅子ヶ谷書林店主のTが先日亡くなった原田芳雄さんの著書を紹介していましたが、まず持っている人は少ないでしょう。いい役者でした。

あのブログを読みながら、ひょっとして、わが家にも、と、すぐ思いついたのは映画「赤い鳥逃げた?」(監督藤田敏八 1973年)のサントラ盤LP。
久しく、針を落とさず、LP棚に眠っていました。

あの本がB級なら、これもB級LP?
こんな、少々、訳のわからない映画が面白かった。

映画小僧入門は、地元、高知の「名画座」でしたが、もっともたくさん観たのは、19歳、京都の浪人時代の「京一会館」。今は無い、知る人ぞ知る「小屋」でした。
今村昌平、篠田正浩、吉田喜重、岡本喜八、浦山桐郎、熊井啓、寺山修司・・・・・・日本映画ばかりでしたが、故郷では見たくても見れない作品、予備校に通った日数より、京一会館に通った日数が多い、「わが青春の京都」でした。

東京の学生時代も見ましたが、京都時代ほどの熱はありませんでした。飯田橋の「佳作座」、銀座の「並木座」はそれでも時々。長編「風と共に去りぬ」は佳作座で昼飯持ち込みで観ました。

原田芳雄は、やはり「祭りの準備」(監督黒木和雄 1975年)。故郷、土佐の中村が舞台でしたし、原田の最期のシーンは涙が出ます。この作品だけは封切り後、2日続けて見ました。

今や「赤い鳥逃げた?」がどんな映画だったか、すっかり忘れてしまいましたが、今日は原田芳雄追悼!



写真は「赤い鳥逃げた」サントラ盤LP  ジャケット写真は中平卓馬

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ヘルパー2級習得

5月末より研修を受けていたヘルパー実習が終わりました。

講義と実技で10日間、施設実習3日間、家庭に行ってのヘルパー実習半日、合計14日間にわたる研修でしたが、すべて終了。
これを取ったからといって、仕事が変わるわけではありませんが、介護施設の職員としては、基礎的な実技など、役に立つこともありそうです。
まあ、これも立派な「資格」、どこかで学んだことが生かされることはありそうです。

早速、役立ちそうなのは、85歳の要介護度2の父親の世話です。認知は来ていませんが、杖無しには歩行が不安ですし、遠からず、今より身体が不自由になるでしょうから、この研修で学んだことは、この同居の父親の介護に役立ちそうです。

男はヘルパー資格を取っても、女のように、各家庭に入って、調理や掃除などはやりません。介護施設などで働く場合が多いようです。

先のブログにも書きましたが、寝たきりや認知が進んで施設で預かっている場合、力仕事など、どうしても男が必要です。
今の施設では、肩書は「生活相談員」ですが、実態は「なんでも屋」です。こういう場合、なんでもできる「男」が重宝されます。この点、僕のような「ロートル」より、若い世代はえらい。

若い世代より、少しは優るのは、お年寄りとのコミュニケーション、教育的な仕事です。それ以外は、パソコンなど、デジタル関係は、若い世代にはかないません。
つくづく、僕は「デジタル」より「アナログ」世代です。

しかし、教師を早めにやめ、新しい仕事について、「自動車免許」と「ヘルパー資格」を取ったことは、この僕には考えられない大変化。

いよいよ、ますます「教育」とは遠い世界に入っていきます。まあ、これもいいでしょう。

今の施設は今後、別の地域にも作る予定ですし、解放運動の理念や目指す方向として、今後は「障害」者の授産施設も作っていきたい計画もあるようですから、「元教師」でも、また「教える」ことがあるかもしれません。

「福祉」はまだまだおくれた分野。今後、法律も制度も変わっていくでしょう。そのたびに勉強しなくてはなりません。

父が介護度2に認定され、さまざまな書類が「役所」から送られてきます。目を通すと、何が言いたいのか、理解し難い言いまわしが、いかにも「お役所」。また、分厚い書類で活字の羅列、まるで目を通したくなくなる、こんな書類は即刻やめてほしい。軽い認知症の1人暮らしのお年寄りには、わからなくて当然。なんとかならないのでしょうか。

こんなところ一つ取っても、この国の「福祉政策」は不十分です。出せばいいというものではありません。「お上」の対応に、実態に合った柔軟性がほしい。
「社会的弱者」の立場に立つことは、あらゆる分野で、本当に難しい。

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2011年07月19日

ひさびさの「台風直撃」 もっと地震、津波が怖い!

ここ数年、日本を襲う「台風」は九州や本州に被害をもたらすことが多く、「台風銀座」、のわが土佐は、すっかり「台風」直撃と縁遠くなっていましたが、19日の「台風6号」は土佐湾直撃、相当の雨と風でした。

一部の地域では被害が出ていますが、昔、経験した「台風」と比べたら「弱い」ものです。
戦前の室戸台風の凄さは知りませんが、1970年の「台風10号」(通称、土佐湾台風)はすごかった。屋根瓦が飛ぶのをはじめて見ましたし(雨戸を少し空け、前の家の屋根瓦が紙きれのように空を舞っているのに感動(?)。もうその時には、自分から見えないわが家の瓦も空中浮遊していたことを、後から知りました!)、近所にあった作業小屋は、吹き飛ばされ、そのまま、20メートルぐらい先に引っ越し。

浦戸湾周辺のわが家は高潮の被害で床上1メートル50センチの浸水。前の道路では2メートルを超えていました。
1階にあった電話機はかさ上げして無事。テレビが伝える台風情報を見て、たくさんの電話がかかつてきましたが、なにせ床上1メートルの浸水、2階への階段の3段目ぐらいまでの浸水ですから、電話が鳴るたびに、おへそまでの水をどぶって電話に出ていましたが、アホらしくなって、とうとう放置、鳴りやまない電話のなかで、一晩を過ごしました。

次の日は3キロ先のはりまや橋までボートで行けましたし、高知駅構内では金魚が泳いでいたそうです。

14年ほど前の「98豪雨」では、高知市東部地域が浸水、県立美術館が「水没」するなど大きな被害がありましたが、この時はかろうじて床上浸水をまぬがれました。(畳を上げておこうか、いや、そこまではと、ヒヤヒヤの予想はなかなか難しい!)

わが家のある若松町周辺は浦戸湾の潮位より低い「海抜0メートル以下」地帯、江戸時代末期までは「下知村」の周辺で、お城下の浸水を和らげるための「遊水地帯」、人は住んでいませんし、町もありません。1946年の「南海地震」では堤防が決壊し、流れ込んだ海水がなかなか引きませんでしたし、軟弱地盤で「液状化」、前の道路が裂け、海水が噴き出したと言われますので、もともと人が住んではいけない地域、明治以後に堤を作り、近代化、都市化で、宅地となったものです。歴史的には、「災害にあって当然」「住んではいけない」地域です。

しかし、雨は流れて消えてしまいますので、「地震」や「津波」ほどの恐怖感はありませんが、高知の「雨」を知らない人は天が裂けてバケツをひっくり返したような「集中豪雨」には恐怖を感じるようです。

もう数十年前、県外から車で来た友人が、徳島の池田付近から、あまりの雨に車を運転するのが恐ろしくなって、途中まで迎えに来てくれとSOSを送ってきました。

土佐では山間部に局地的に被害をもたらす大雨を「山津波」といいます。もう30年以上前、仁淀川筋を襲った「山津波」では、祖父の家が裏山からの濁流で、半壊。親戚が生き埋めになってなくなるという事件もありました。今回の3,11の津波で、すべて持って行かれた荒涼とした風景を見て、すべてが土砂で埋められた、あの仁淀川の災害を思い出しました。

しかし、「雨」、「風」よりも、やっぱり「地震」、「津波」の恐怖はケタ違いです。
毎年来る「台風」ですが、30年以内に来るだろうといわれる「南海地震」と「津波」は、「いつ」が、予想がつかない恐怖です。
特に今回の「東北大震災」で、高知県のすべての震災対策がやり直し、「3,11」は「地震」で終わらない「津波」の恐ろしさを高知県民に教えてくれました。他人事ではないと。


南海地震、津波「想定外想定」シュミレーション  生き残るために


1、地震で築50年近くのわが家が崩壊。日本瓦、総2階の重量は旧建築法で建てているので、震度6以上で潰れこむ。火災が出たらアウト。類焼もあり得る
2、奇跡的に助かったとして、1階で寝ている85歳の父の安否を確認。アカンかったら、家内と2人で「津波」が来ることを予想して逃げる。(オヤジすみません
3、家の前の道路は液状化して、亀裂から海水が噴き出す
4、車では脱出できないので、走って、裏の青柳町にある高層マンションに避難
5、父が生きていたら、車いすか、背負って避難 (父は歩けない)
6、車で五台山に逃げるのは無理、青柳橋が崩壊か、渋滞で山へは行けず
7、国分川の堤防決壊、海水が流れ込む、推定1メートル50から2メートル
8、浸水は長期に続く、水門が決壊、調整不能  ポンプは役たたず。
9、わが家の南、中州の石油タンク爆発。 火災おさまらず、消防車入れず、消火艇からの海上放水しかできず。タンク誘爆の恐れ、周辺数キロの住民への避難勧告。
10、行政は勧告出すだけ、何もできず、住民は見捨てられる。誰も助けに来ない。
11、逃げ込む高層マンションもはたして、建っているか?もともと、遊水地の「豆腐地盤」
液状化が進み、マンションも下層が埋没、最悪、倒壊(1戸建て住宅より、死者が多いことも予想される)。
12、地震、津波発生から3日間ほどは「自力」で生き延びる必要あり。電気、水道、ガス使えず。身体と一緒に逃げた「非常持ち出し袋」が生命線(僕はおっちょこちょいなので、きっと忘れる)。
13、浸水、液状化が確実に予想される「さんさんテレビ」は放送機能消滅?全滅!
14、どだい聞こえない、明瞭に届かない「有線放送」など、何の役にも立たず。
15、結論、まず助からない。生き延びるために、さて、どうするか? この歳にして、こんな将来を考えなくてはならないなんて、ここに家を建てた「ご先祖」さまを怨みます。

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2011年07月16日

施設 「開放」から「解放」へ

 
7月16日、朝倉第2小校区にある3町解放子ども会が来所。

被差別地区に生まれた子どもたちは、日頃から、放課後の子ども会活動に参加し、宿題をしたり、スポーツをしたり、人権学習をしたりと、僕が教師を始めた30年以上前から活動をしてきました。

「人権主任」の教師がいた時代は、行政の援助も厚く、夏休みには、それぞれの地区でキャンプに行ったり、学期ごとに高知市内の解放子ども会の交流行事を行っていました。

僕など、朝倉中の「人権主任」として、子ども会活動を指導したり、市内全体の交流行事を企画、運営していました。まだ30歳、当時は県下で一番若い「人権主任」でしたが、教員組合の青年部活動と並行して、忙しい毎日でした。

ふりかえれば、忙しかったけれど、充実した毎日でしたし、「地区」に入り込んで、オンチャン、オバちゃんに鍛えられました。定年前に教師をやめ、この施設に拾われたのも、そうした縁です。

今は専任の「人権主任」もなく、行政も「差別は解消している」との消極的な姿勢に転換、以前のような財政的援助もありません。それでも、この「地区」は細々とがんばっています。

今回は3町解放子ども会の一泊合宿として、「いきいきの里」を見学したいとのことでしたので、話しばかりの人権学習より、「高齢者」や「障害者」に対する理解を深めてもらおうと、車イスの試乗や操作、さまざまな「老人グッズ」の体験を入れ、身体で学べる内容を考えました。

「やがて人は歳を取る」「自分でできたことができなくなる」「どんな人も普通に暮らせるノーマライゼーションの考え方」など、「老い」を差別的に見ないことも、「解放」の思想だと強調しました。

こどもたちは車いすの操作も初めて、段差の昇降がどれほど難しいか、体験を通して学んでくれました。

「元教師」として、子どもたちの「笑顔」はうれしいものです。施設の住人Mさんは、ちょうど、脳梗塞後のリハビリ歩行訓練中に子どもたちと出会い、声をかけられ、やる気が出たと言っていました。「大人」ばかりの施設ですが、「子ども」の「癒しの力」のすごさを認識しました。

学校の帰り道にある施設ですので、施設を「開放」して、子どもたちが立ち寄り、宿題をしたり、遊んだり、自由な居場所になる「こどもの解放区」・・・・そんな「開放」も「解放」に繋がる、そんな気がしました。あらためて、「子ども」の力はすごいです。

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『高知市史近代編』 年表作り続く


昨年も手伝っていましたが、今年も高知市から委嘱を受けて、古い新聞のマーキング作業を続けています。

明治から戦前までの「土陽新聞」「高知新聞」「高知日日新聞」「大阪朝日新聞高知版」などから、高知市(県も含む)の政治、経済、文化、教育、軍事など、近代年表作りの下地作業。お手本とするのは、岩波書店の『近代日本総合年表』ですが、この「地方版」を作るのは、大変です。

古い新聞を一枚々めくり、見出しをマーキング、それに基づいて、パソコンに、見出しと、記事の最初の20字を打ち込む作業。

近代史研究者や、大学の教員など8人がマーキングし、それを別のパンチャー(?)がパソコンに入力、時間のかかる神経を使う作業です。

このために雇用したパンチャーは、長時間続けると、視力の低下が進みます。新聞元紙を見るのではなく、縮小コピーした判読しにくい小さな文字を入力するのですから、なかなかはかどりません。結局、今年度を含む、2年間の作業となりました。
22年度は記事入力75、742件、写真入力3、946件を終え、大正、昭和戦前期をほぼ終了。

今年度は、とりあえず、明治37,8年の「土陽新聞」をめくっていますが、ちょうど、日露戦争中、この時代の新聞はまだ写真を印刷する技術が無く、戦争の様子は「挿絵」です。それも多くはなく、紙面のほとんどは、見出しの少ない活字の羅列ですから、マーキングも骨の折れる作業、紙面の隅々まで目を通さなければなりません。日露戦争には郷土の四十四連隊も出征し、戦死者も多いです。

司馬遼太郎さんは日露戦争を「祖国防衛戦争」と、『坂の上の雲』に記しましたが、こうした解釈には、「ちょっと待って・・・」と僕などは考えていますが、紙面を見る限り、当時の「総力」を挙げて、大国ロシアと戦ったことがわかります。
国家財政も破たん寸前、紙面では「義えん金」をたびたび募り、戦争遂行のため、1円でも寄付した人の名前が紹介されています。増税、増税と、すべてを戦争のため、国民に苦しみ、我慢を強い、まだ「貧者の一灯」に頼って「金」を集める明治国家。

日露戦争は「遅れた帝国主義」による「大陸膨張策」ですが、こうした紙面を見る限り、司馬さんが「祖国防衛戦争」と名付けた「小説的解釈」もわかるような気がします。
「日露戦争」が研究者レベルでの評価と、小説的な解釈、評価とは違っても仕方ないでしょう。
おかしくなったのは、「自虐史観」と、教科書攻撃をした人々が、司馬さんの小説の一部を取り上げて、これこそ正しい歴史観と利用したこと。「司馬史観」の総体を見るならば、むしろ、教科書攻撃をした人々とは正反対の「歴史観」です。今回の「フクシマ」を見ずに、司馬さんは逝ってしまいましたが、生きていたら、「この国のかたち」に黙っているはずがありません。

昨年は担当紙面が「日中戦争」、今年は「日露戦争」、2つの戦争を「地方新聞」の紙面から考えてみる、絶好の機会を与えられた、そう思って頑張ります。

写真は「土陽新聞」紙面(縮刷コピー)
挿絵「戦友の英魂を弔う」

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2011年07月05日

森有正 生誕100周年

書棚の本をふと、眺めていて、『森有正全集』を取りだしたところ、今年が生誕100周年であることに気付きました(1911〜1976)。

学生時代に筑摩書房から発行され始めた全集は、相当、無理して買ったもの。
あの頃、2000円近くする全集は、揃えるまで、相当の覚悟で買い続けたものです。

1970年代は、さまざまな「全集」が企画され、それなりに売れた時代だったと思います。
神田のゾッキ本に出ていた『田中英光全集』などは、「ああ、あの頃、無理して買っておくんだった」と、今になって後悔。

「哲学者」とくくることだけでは終わらないスケールの大きい「思想家」だった森有正ですが、生前には公表されなかった『フランス語日記』を翻訳で読むことができたのは、この「全集」の大きな貢献でしょう。

ただ、『フランス語日記』は、一部は不掲載とのこと、その後、出された有正周辺の人々の著作から、不掲載部分は女性関係など、プライバシーに関わることだと推測されます。

30年ほど前、有正の実妹、関屋綾子先生にお会いした時、(関谷さんは日本YWCA会長、のち、丸木美術館理事長  1915〜2002)、兄、有正の話になり、パリに飛び、有正の死を確認し、彼のアパートの整理をすまして帰国した彼女が「兄は、相当、ちゃらんぽらんなところがありました・・・・例えば・・・」と、語られました。

その後、兄の葬儀のことや、パリでのことを書かれたものを送って下さいましたが、まだ、「全集」のフランス語日記の出る前、彼女の話から、有正の「秘密」が何か、推測されました。
有正死後、たくさんの周辺人物の著作が出されましたが、僕にはスキャンダルめいたことを暴露したような「品」の無さしか感じない、後味の悪さが残るものが多かったです。

「全集」は、もう絶版ですが、『バビロンの流れのほとりにて』など、エッセーは今も読者が多く、筑摩書房が出し続けているようです。読まれ続ける価値のある「思想家」です。

どこまでも「自立した個人」を追い求め、自立しない「日本的感性」を断ち切ろうと奮闘した森有正、こんな時代こそ、読み続けられると思います。

写真は 関谷綾子著「『1本の樫の木 淀屋橋のひとびと』」(日本基督教団出版局1981)
『共助  森有正追悼号 』 (基督教共助会出版部1977,2)


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2011年07月03日

29年前の「カンボジア」

新聞にカンボジアで「特別法廷」が開かれ、旧ポルポト派の最高幹部4人の初公判が開かれたことが出ていました。

4人は元国家幹部会議長のキュー・サムファン、元副首相兼外相のイエン・サリ、元社会問題相のイエン・チリト(イエン・サリとチリトは夫婦)、元人民代表議会議長のヌオン・チアンの4被告。

旧ポルポト派が壊滅して、彼らの支配が終わって数年たちます。ずいぶん遅い審理開始です。ここに、この犯罪を果たして今ごろ裁けるか、彼らだけに罪を着せて裁判すればいいのかという、問題の根深さがあります。

1983年、夏、旧ポルポト派が潜んでいるカンボジアに入りました。「戦争とは」「内戦とは」という節操のない興味からの入国でした。

この頃ポルポト派はベトナムに援助されたヘム・サムリン政権に首都プノンペンを追われ、タイ国境のジャングルで少数ながら「民主カンボジア」国を作り、旧元首シハヌーク(亡命し、ペキン在)をいだき、まだ国連に正式に認められた正規の「国家」でした。当然、日本とも「外交」関係がありました。

この年、中学教師だった僕は夏休みを利用して、旧総評の独自ルートを通じ、タイへ入国。首都バンコクから国境の町アランヤプラテートに行き、ジャングルの国境線を越え、旧ポルポト派が支配していた「民主カンボジア」に入国しました。

まだ内戦中であり、周りのジャングルは地雷が埋められ、正規軍の兵士たちが護衛にあたる緊張した3日間でした。

当時副大統領のキュー・サムファンとも通訳を介して会見、すでにヘムサムリン側に実効支配され、形ばかり残っていたポルポト派の支配の正当性を何度も強調していました。

当時は「外国人」をシャットアウトして秘密の国家づくりをしていたポルポト派でしたが
隣国タイは、アメリカに勝ったベトナム共産主義を恐れ、そのベトナムに支援された新しい「国家」を認めず(日本も同じ)、もはや、残存勢力となったポルポト派を応援していました。その緊張関係のなか、アランヤプラテートから、簡単に「入国」できる「独自ルート」で入ることができました。

後でわかったことですが、ポルポト首相もこのジャングルに隠れていたようですが、記者会見には「顔」を出しませんでした。

あの頃から約30年、民主主義国家となったカンボジアで逮捕された旧ポルポト派幹部が裁判にかけられようとしています。逮捕された数年前には、その「特別法廷」が世界に注目されましたが、こう月日がたつと、もはや忘れられた存在です。

自民族を大量に「虐殺」し、ナチスの「ホロコースト」のように言われた「ポルポト派」ですが、そうした急激な「国づくり」は毛沢東の「急進主義」をまねたものと言われます。

今回、「特別法廷」で裁かれる「旧幹部」は、ほとんど宗主国フランスに「留学」したエリート層です。キュー・サムファンなど、自国語、英語、フランス語を話す「知識人」でもあります。フランスからの「独立」を夢見て、マルクス主義を学び、秘密のうちに帰国し、「クメール・ルージュ」を結成した人びと。

この「特別法廷」の審理の行方は「仏教的」な結論を出しそうな気がします。
「諸行無常」「盛者覆滅」・・・「終身服役」はあっても「死刑」は無いでしょう。「無罪」が出ても、おかしくはありません。国際的には非難されますが。

カンボジアはもともと篤い「仏教」国、その歴史や文化を見ても「争い」を好みません。
自国から「侵略」した歴史はありません。「微笑みの国」であり、アンコール・ワットに象徴される「仏教」国です。
深いジャングルでも、子どもたちや大人から、あいさつの手を合す「お礼」をされ、この民族の敬虔深さに驚いたものです。

わずか3日間の「民主カンボジア」滞在でしたが、「国境」を出る時に思ったのは、
どの人びとも今日一日「平和」に「無事」に暮らせるのが一番だ、という思いでした。

「少年兵」に護衛され、「地雷」に気をつけながらジャングルを歩いた、あの夏のカンボジア、もう一度行きたい。

恥ずかしい話し、ジャングルで「銃声」を聞いた時、僕は、思わず「「オシッコ」をちびっていました。

「平和」のなかで育った「僕」など、この程度のものです。


写真は7月1日「高知新聞」記事
29年前の内戦中の「カンボジア」スナップ、副大統領キュー・サムファン氏(U原撮影)

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posted by うんちくウメッチ at 00:07| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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