2011年05月16日

GHQ許可第1号「そよ風」上映会

5月16日、僕の勤める「いきいきの里」で、第2回映画上映会を行いました。1月の「阪妻」に続いて、今回は昭和20年秋の松竹作品「そよ風」(佐々木康監督、60分)。

日本映画研究家の円尾敏郎さんと、高知で「小夏の映画会」をやっている田辺浩三さんがホームの老人たちのためにひらいてくれました。

「そよ風」は「リンゴの唄」で有名な並木路子さんが主演。映画で歌った「リンゴの唄」は一躍、全国に広がり、戦後最初の大ヒット曲ともいわれます。
映画は単純で、金もコネもない少女(並木)が、「リンゴの唄」を歌い、その「実力」でスターとなっていく「サクセスストーリー」。
8月に敗戦、すぐにGHQが許可し、10月10日の上映。特別な名作ではありません。

円尾さんいわく「戦争一色であった日本映画を否定し、アメリカ流の民主主義を教え込むために、少女が「実力」で成功していくアメリカ人好みの単純明快な物語。そのため、GHOQが積極的に援助し、このような映画を作りなさいと、「許可第1号」として認めたもの」とのこと。

わずか1時間の作品ですが、戦地から帰ってきた上原謙や佐野周二、歌手の霧島昇など、当時のトップスターを配役にしています。

老人たちは、誰でも知っている並木路子が「リンゴの唄」を歌うシーンに喜んでいましたが、円尾さんの解説を聞き、こうした背景のもとに、この映画が作られたことがわかったようです。
この映画会は円尾、田辺さんの2人が、「手弁当」駆けつけてくれ、お年よりたちに喜んでもらおうと企画してくれています。

第1回(1月7日)の阪妻「血煙高田の馬場」が道徳の普及に、「教育」以上に力を持っていたことを明らかにしてくれましたが、今回の「そよ風」も、封建道徳打破、戦後民主主義を教えることが、その背景にあることを、鋭く指摘していました。日本人の大好きな「忠臣蔵」は占領中は禁止、戦後、独立を果たすまで、制作は認められませんでした。

円尾さんの「日本映画」研究、それもどちらかというと「B級作品」の分析や考証は、「大衆文化」の果たした役割を考えるうえで、見落としてはならない「研究」です。

この映画会は、あくまで16ミリフィルムで、映写機を使って、「映画館の雰囲気」を残しながらやりたいという、きわめて「贅沢」な趣向です。
こんな機会を作って下さる円尾、田辺両氏に「感謝」あるのみです。
お年よりたちが、「どんな映画を見たい」か、リクエストも聞いていましたので、次回は、その希望が実現するかもしれません。

写真は上映会風景 

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posted by うんちくウメッチ at 22:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月09日

ふたりの画家のこと

いっこうに見通しが立たない、「フクシマ」にむしょうに腹を立てながら、職場の昼食時にはテレビのニュースを見ています。

この間まで僕のグループホームに滞在した、もろさわようこさんは「ジャーナリストや知人は家族を東京から脱出させている。逃げ出したように思われるのがいやで、黙っていますが、それほど、放射能に対しては、危機感が強いのです。」と教えてくれました。

埼玉、川越在住の鈴木啓介さんが御自身のブログ「川越だより」(http://blog.goo.ne.jp/keisukelap )で、丸木美術館で「チェルノブイリ 風しもの村 貝原弘スケッチ展」が開かれていることを教えてくれました。

鈴木さんは高知県室戸の出身。東京で高校教員をし、退職後は「癌」と戦いながら、ブログ「川越だより」で、さまざまな社会問題を取り上げ、ご自身の考えや、専門家の意見を紹介しています。幅広い、その思考は、僕にとって、「智恵袋」みたいなものです。一般新聞やマスコミからは得られない「本物」の情報をいつも、教えてもらっています。

「原爆の図 丸木美術館」を作った丸木位里、俊夫妻には学生時代、ずいぶんお世話になりました。家内は信州の高校を卒業後、美術館に住み込み、夫妻のお世話をしながら、絵の勉強をしました。

その家内と知り合い、東京の学生時代には、5月5日、8月6日に行われる美術館の行事を手伝いました。仲間と泊まり込み、位里、俊夫妻から、話が聞けるのは楽しかったし、訪れるさまざまなジャンルの人々から「ものの見方や考え方」を学びました。

安井郁、志賀義雄、土本典昭、袖井林二郎、孝子、曽根正哉、長岡弘芳、富山妙子、針生一郎、ヨシダヨシエ・・・あの頃の「丸木」には面白い人々があふれていました。

今から、28年前、高知市教育研究所創立40周年の記念講演は俊さんにお願いし、高知に3,4日滞在しました。俊さんを連れて、窪川原発反対に取り組んだ人々と交流したり、原発建設の予定地であった、興津の浜ではゆっくり美しい海を眺めながらスケッチにいそしみました。

「原爆の図」を書き上げた夫妻にとって「原爆」と「原発」は同じ物。終生、原発の危険性を訴え続け、日本、フランスなど、各地の建設反対運動に連帯し、応援しました。

亡くなる前には、こうした活動が評価され、ノーベル平和賞の候補にも挙げられました。夫妻が亡くなり、もう10年を超えましたが、美術館はその後、多くの人々の援助によって維持され、今回のような企画展が開かれています。
夫妻亡きあと、ここまでの歩みは決して楽なものではありませんでしたが、鈴木さん夫妻など、心ある人々の活動で支えられています。
貝原さんのスケッチと一緒に本橋成一さんと広河隆一さんの写真展も開かれるようです。本橋さんはずっとチェルノブイリを取材し、写真と映画「ナージャの村」で、人々に訴え続けていますし、『ふたりの画家 丸木位里 丸木俊の世界 』(1987年 晶文社)で丸木夫妻を写真集として残しました。

丸木位里(1901〜1995)、俊(1912〜2000)が生きていたら、今回の「フクシマ」には危険を顧みず、足を運んでいたのではないか、新たな「原発の図」が描かれていたと思います。


写真は
丸木俊さん 高知県窪川 興津の浜でのスケッチなど
長男 岳の肖像と、描いている姿

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posted by うんちくウメッチ at 19:11| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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