2011年03月31日

グラフジャーナリズムの衰退

今回の東北関東大震災の写真を、週刊誌のグラビアページで見ました。
テレビでは絶対、放映しない凄惨な現場をこれらの写真が物語っています。
公共放送は独自の「コード」を持ち、決して惨たらしい場面は放送しませんが、週刊
誌には、テレビでは見ることのできない、「事実」が載せられています。
かつてあった新聞社系の「写真グラフ誌」も、写真を主とする雑誌も、採算が合わな
く、数年前に廃刊しました。
今あるのは、こうした衰退を見たカメラマン達が、これではいけないと、自分たちで
立ち上げた「写真誌」と、ヌードも死体も「有名人隠し撮り」も、何でもありの写真
週刊誌だけです。

世界的な写真誌「ライフ」の廃刊に象徴されるように、グラフジャーナリズムの衰退
は、報道写真の発表の場を縮小し、「写真」を主とするカメラマンの生活そのものを
奪いました。
新聞社系のグラフ誌も、今はありません。「報道」は「動画」が主になり、今は「カ
メラマン」と言えば、「スチール写真」ではなく、ビデオカメラを持つ人を指す時代
です。
中学生の頃から、将来はフリーで世界を股にかけて取材する「カメラマン」になりた
かった僕は、高校の頃は写真の勉強のため、こんな「田舎」にいながら、「ライフ」
を買いにいっていました。高知の大きな書店では、「ライフ」は数部売っていまし
た。
米軍による「ソンミ村事件」を「ライフ」で見たのは衝撃でした。
ベトナムの米軍が起こした「ソンミ村住民虐殺事件」は「ライフ」が世界に発表し、
アメリカの「正義」の嘘が暴かれました。軍上層部はこの虐殺を闇に葬ろうとしまし
たが、いつとはなしに漏れ、米軍の従軍カメラマン(兵士の資格で写真で記録する
係)の「内部告発」がきっかけで、「ライフ」を通じて、世界に公表されました。
わが子が「正義」のために戦っていると信じていたアメリカの母親たちは、「息子」
たちがベトナムでこんなことをしているという「事実」を見せつけられ、この写真
は、その後のベトナム反戦運動、米軍撤退に大きな影響を与えました。
「凄惨な場面は、撮っても、放映しない」「残酷な映像は子どもたちの成長に大きな
傷を与える」と言われ、テレビでは、相当な「自己規制」が働いていますが、このよ
うな規制が「真実」を遠ざけるものになりはしないか、今回の「津波」や「原発」、
「震災」報道を見ながら、ちょっと心配もしています。
「写真や映像を撮る前に、なんで、助けないか」、「よくも、ずけずけ、こんな場に
入ってくるな」という撮影者に対するバッシングは、衝撃的な「事件」ほど、のしか
かってきますが、「撮る」ことよりも「隠す」ことがどれだけ恐ろしいか、「歴史」
は証明しています。それにしても、今回の「NHK大本営発表」は、ちょっと、もう
少しなんとかならないかと、思うのは僕だけでしょうか。NHKより、今は「週刊
誌」の方が「真実」に近い、そんな気がします。


写真は「ライフ」1970年1月19日号   ソンミ村住民虐殺事件THE 
MASSACRE AT MYLAi

P1040441_R.JPG

P1040443_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 00:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月28日

車で通勤

3月24日、教え子のK君が「車」(スズキ ワゴンR RR)を持ってきてくれました。
早速、一通りの操作説明を受け、車庫入れ練習。その後、生まれて初めて一人で乗りました。
今までは、教習所の先生や家内、教え子などが一緒に乗ってくれましたが、今度は僕一人。これはこれで、けっこう緊張するものです。無事、試乗も終わり第一関門通過。
25日からは朝の通勤に乗っています。
57歳のオンチャンドライバー誕生。

自転車で45分の距離も、車なら、20分足らず。早いし、荷物も積めるし、「車」は便利ですね。
最後に勤めた学校は、片道12キロ、往復24キロ。この距離を自転車を踏んでいましたので、健康には役立ちました。
運転に慣れるため、これからは「車」優先で通勤しますので、自転車をやめたあとの「運動」は他の手段を考えねばなりません。

「便利」であることは、それと引き換え、失うものも多い。
安い「中古車」でも、ローンの支払い、ガソリン代、車検、点検費用等は大きい負担です。僕は今まで自転車一筋、人より、たくさんの本が買えたのも「車」に乗らなかったことが大きいです。ほんとうに「車」は「金食い虫」。

リッター150円以上のガソリンを入れ、これから、「車」に乗るのは、この「非常時」,本当に、「車」を必要としているひとびとが優先でしょう。
被災地は10Lのガソリンが手に入らなくて、死者まで出る事態。僕などは、しばらくは、自転車を使うべきかもしれません。しかし、まあ、せっかく取った「免許」、慣れるためにも、「車」利用をお許しください。
ガソリン値上げで、ドライバーは大変ですが、まあ、自転車の「人間エンジン」も、「駐車場」や「懲戒免職」を気にせず、帰りに「柳町」で本当のアルコールを補給してきましたので、このアルコール代はリッター150円ではききませんでしたので、はるかに、ガソリンのほうが安い?


写真はスズキ ワゴンR RR

P1040438_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 19:39| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

放射能汚染は甘くない

この世界は人間の思い通りにデザインできる、という近代合理主義の思い上がりを徹底的に打ち砕いたのは「思想」でなく、「自然」でした。
「地震列島日本に原発は作るべきではない」というのが「思想」です。

「フクシマ」の結末はまだ答えが出ていませんが、これからのわたしたちの生き方、価値の置き方そのものを大きく変えていくでしょう。
政府の発表やテレビで流される情報は、かなり、楽観的なことを伝えています。
徳島で平和教育や反原発運動に取り組むT先生が、家内の友人F先生に伝えた、情報を回してくれました。

インターネットテレビの情報は相当、深刻な事態が引き起こされることを伝えています。
一般のテレビに総動員されたひとびとは「ただちに」影響は無いと強調していますが、広島、長崎のように被爆死するような被害を「ただちに」というのであって、長崎、広島で生き残ったひとびとは、今でも、被爆が原因の癌や、病気でなくなっています。「ただちに」は影響がなくても、「いつかは」それが起こることを、歴史は証明しています。

原、水爆の開発でも、製造や実験に従事した研究者や労働者、兵士、ネバダ砂漠周辺の住民に、その後、被害が現れることを予想したひとびとは少数でした。
このように、放射能の被害は想定を超えるものです。蓄積され、時間がたって、現れます。

すべての「生態系」に影響し、国民生活(地球規模に拡大)に多大の困難をもたらすでしょう。そろそろ、腹をすえねばならない時期に来た、そのような気がします。

本当に危険なことを、今、報道すると、東日本を中心に大パニックが起こることを政府は恐れていると疑われても、仕方ありません。

根本的な原子炉からの放射能を除去することができないまま、いつまで、国民は不安にさらされるのでしょう。政府は「買占め」せず、「不満を言わず」、「我慢」や「冷静な対応」(政府の出す情報だけを信じなさい)を国民に求めていますが、こんなレベルの問題にすりかえてはいけません。

そうした我慢強い「日本国民」性が「美徳」であるかの様な海外メディアの報道を持ち出し、新たな「愛国心」を強調、強制していますが、今やらなければならないことは、放射能汚染が今後、ますます、あらゆる生態系や日常生活に影響が出てくることをきちんと、「説明し」、「対策」を立てることです。

もし「モラル」を持ち出すならば、その納得できる「説明」にあわてず、慎重に行動できる国民の行動こそ「モラル」でしょう。その評価は今はできません。「歴史」が証明することです。


posted by うんちくウメッチ at 19:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

被災地 宮城から連絡がありました。


宮城県美里町に住むS校長から、20日の夕方、電話がありました。
13日にお見舞いのハガキを書いて送りましたが、夕方、S校長より、電話がありました。

地震当日は、S校長の勤める中学校(生徒数550名)は午前中、卒業式。激しい揺れで3階建て鉄筋の校舎の1階が1メートル近く潰れこんだそうです。阪神大震災と同じように、1階が弱かったとのこと。
昨日まで、泊まり込みの復旧に忙殺されていたそうで、美里町の自宅に届いた僕のハガキを見て、電話をくれました。
S校長の住む美里町は海岸線から20キロくらい。津波の被害は無し。

以下、S校長からの情報

水道 まだ復旧せず。22、3日になるとのこと
電気 18日に復旧
ガソリンが手に入らないため、自転車で1時間以上かけて学校に来ている教員もいる。
それ以上、遠くてこれない教員は、地域の復旧に協力してもらっているとのこと。
とにかく、ガソリンが無いため、車を使えず、動けない。
自宅には9日ぶりに帰ったが、地震で家の中はジャングル。
ケータイは中継所が被害にあい、しばらく使えなかった。
被害にあった学校は卒業式が午前中にあり、生徒は帰宅していた。残っていた教員も大丈夫だった。

東北の被災地は地震の揺れで大きな被害が出ていますが、テレビは津波と原発のことに集中していますので、そうした被害を免れたS校長の住む町や学校でこれだけのことが起こっていることから想像すると、津波の直撃を受けた地域など、想像を絶する状態だと思います。
posted by うんちくウメッチ at 13:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月18日

「シルバーポルシェ」は来なかった

57歳にして、はじめて自動車免許を取りましたが、教え子からは、とうとう「シルバーポルシェ」は届きませんでした。
その代わり「おまえらあの今があるのは、誰のおかげじゃ、俺用の安い軽の中古を探して来い」との「厳命」どおり、3月9日、教え子のK君が職場に「スズキワゴンR」に乗って来ました。
「これが、先生にはぴったり。社長に話すと、もう2万円ばあ引いちゃれということですので、うちはもうけは少ないですが、これでどうでしょう。」
すぐに職場の周りを試乗。ターボで燃費は悪いですが、近くの急な坂道も「ドライブ」のまま駆け上がります。おまけに、これはちょっと珍しい「電動サンルーフ」付き。どこにもある普通の軽ですが、「サンルーフ」は個性的でおもしろい。暑い時でも、クーラー節約で走りましょうか。閉め忘れて、雨でも降ったら大事。
強烈な雨の降る高知で、果たして雨漏りせず、走れるのでしょうか。カッパを着て運転なんていうことの無いことを祈ります。
イタリアのF(高級車の方)などは、その昔、雨の少ないヨーロッパを基準に作ったためか、日本では「雨漏り」するという「風評」が出たものです。
来週には、頼んであったこの車も来るようです。
注文してから、大地震が起こり、本当に車を必要とするひとびとがたくさんいる中、こんな「ブログ」を書いて、申し訳ありませんが、57歳のオンチャンドライバー誕生ということで、お許しください。
まだ、もらったばかりの免許では、車を使った仕事はできないでしょうが、今回の「東北・関東大震災」、こんな僕でもお役に立つことがあれば、今すぐ、現地へ駆けつけたい。

親戚は東北には無く、教頭の研修会で3週間、筑波でご一緒した、宮城県、美里町のS校長は、昨年秋、この高知で「全国中学校校長会」が開かれ、10年ぶりに一晩、楽しいお酒を飲みましたが、三陸海岸から20キロと離れていない、美里町はどうだったのか、お見舞いのハガキを書きました。きっと救援活動で忙しいのではないかと想像しています。

この前のブログに書きましたが、僕も「地震・津波危険地帯」に住んでいますが、こんな悲しみは経験ありません。

1970年夏、記録的な豪雨となった「土佐湾台風」で、高潮により、床上1,5メートルの浸水被害を受けました。一晩を避難してきた隣の家(平屋は天井近くまでも浸水)の家族と、まんじりともせず過ごしました。一夜空けて、まだ、引かない泥水の中で、さてどこから手をつけようか、呆然としたものです。当時、高校2年生。父は香川県高松におり、家のことより、鉄道復旧にかかり、残された家族3人で、夏休みの最後の数日を、後片付けに追われたものです。でも、今回の地震と津波は桁違い。「土佐湾台風」など、話しにもなりません。

僕にできることは、そんなに無いかもしれませんが、今回の大災害、仕事を休めるならば、今すぐ現地に行き、後片付けでも何でも手伝いたい。

写真は1970年8月 「土佐湾台風」 当時の「写真小僧」は必死でブロック塀伝いに庭や道路の様子を撮影。道路は2メートルの浸水。


P1040422_R.JPG

P1040423_R.JPG

P1040424_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 20:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月15日

3,11 わが身の「愚かさ」を振り返る


あの日の夜、「大津波警報」が出て、夜の9時過ぎ、町内に「大津波警報が発令されました。避難勧告が出ています。避難するようにしてください」と放送されました。
あとで振り返ると、この広報は町内にある有線放送であったのか、あるいは、広報車での放送であったのか、あの日、僕は自宅の2階の窓を開け、聞き取りにくい放送に耳をすませました。僕にはその声は近くに聞こえたり、遠くになったり感じましたので、その時は「広報車」での放送と思えました。
ただちに、もうベッドに入っていた妻を起こし、「放送があった。やっぱり、避難しておこう」と、準備にかかりました。

その時用意し、小さなザックにつめたもの。
1、小さな毛布 (おそらく、避難場所の昭和小体育館には何も無い。冷たい床に寝るのは大変。最低限度、寒さを防ぐため)
2、飲料水のボトル、0,5L 3本 (一晩くらいなら、これで充分という判断。この飲料水ボトルは、1年前に買っておきた「非常持ち出し袋」に入っていた5本から、取り出したもの)
3、レスキューシート2個 (これも「非常袋」に入っていたものを、避難場所は小さな毛布だけでは寒い。これにくるまるほうが良いという判断)
4、トランジスターラジオ (非常袋には手動発電ができるラジオがありましたが、机に置いて、普段使っている 感度の良いAM,FMラジオを持っていくと判断。ついでに、単3乾電池2個(買い置きしているもの)を持参)
5、手袋    寒さ対策(一晩の避難で寒さにやられるのはいやだなあという判断)
6、チョコレート1個 (板チョコ1枚 非常食として、すぐに思いついたのは、これだけ。「非常袋」にはアルファー米の非常食もありましたが、そこまでは必要ないだろうという判断。たとえ避難しても、一晩くらいだろうという「勝手な甘い判断」)
7、貯金通帳 、印鑑、カード 現金3万円 やはり、「金」はいるだろうという判断。(3万は、たまたま、ATMより引き出していた現金)

こうした「荷物」を登山に使うサブザックにつめ、家内と二人、家にある2台の自転車で、避難場所と指定されている「昭和小学校」に着いたのが、午後10時15分(この時間は腕時計をしっかり見て、
記憶にとどめています)。自転車で行ったのは、車(家内の乗っている普通車)で行くと、駐車で迷惑をかけるだろうという判断。自転車で行ったのは、ちょうど2人で避難するために、「歩く」よりも早い
2台の自転車があったため。総合的には、東北の現地より、はるかに離れた場所への「大津波警報」だから、たとえ「勧告」でも、走り逃げるほどのことは無いだろうという「判断」の上の行動です。


問題点 

1, テレビをつけて、津波情報を刻一刻見ていた僕でも、荷物を作り、実際に昭和小に着くまでに、約、25分はかかっています。(準備15分、自転車10分)今回レベルの大津
 波であれば、まず助からない行動です。「とっさ」の行動にはなっていません。

2  さらに問題なのは、大津波警報で、避難勧告が放送されて、地域の避難場所に着いたのは(そのかかった時間も、大いに問題ですが)、午後10時15分。到着してみると、昭和小の西側の門
 は閉まり、体育館、校舎も明かりも無く、閉じられたままでした。
これは、問題だと感じ、その時間を腕時計で確認して、記憶しましたので、この到着時間に間違いはありません。この役所の対応に怒りがこみあげてき、翌日、この事実を友人のケンチャン
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/)に報告。隣町で自主防災組織をつくり、日ごろから、防災について詳しい彼が市役所に問い合わせてくれました。なんと、「避難してください」と放送し
ておきながら、避難場所の昭和小の体育館校舎が開けられたのは翌日の午前12時を過ぎてからとのこと。また、「避難してください」と放送しながら、このときはどこに避難するのか、場所は知
らせませんでした。
空前の大災害が起こり、それにともなう「大津波警報」を出しておきながら、避難場所を伝えないのは、どうしたものでしょう。
高知は「台風県」、大雨や集中豪雨を何度も経験し、自宅の前がどれだけ浸水したら、どうなるかは、長く、この場所に住んでいますので、間違った判断は少ないと思いますが、巨大地震による
「大津波警報」は経験ありません。恥ずかしい話ですが「津波警報」は知っていましたが、「大津波警報」があることは知りませんでした。
今回はTVも写り、しっかり「情報」を取ったうえの「行動」でしたが、わが身の「愚かさ」と、「行政の不備」を痛感しました。
3、また、自身の「愚かさ」ですが、津波では昭和小体育館は水没しますし、今回のような大津波の直撃を受ければ、体育館にいることは危険です。津波の時は、体育館ではなく、校舎の3階以上に避
難しなくてはなりません。日ごろから 避難場所=昭和小体育館と刷り込まれている、間違った判断をしてしまったものです。

4、今回の「大津波警報」であれば、わざわざ遠い昭和小に行くよりも、近隣(大丈夫と思われるマンションは、歩いて5分以内、走れば3分はかかりません)のマンションに逃げ込むことが「適切な判断」でしょう。
しかし、そうしたことも考えましたが、この深夜に、知り合いでも、親戚でもないマンションに逃げ込むことはできないなという考えがよぎり、結局、昭和小までの「長い距離」を避難しました。
「自主防災組織」をつくり、日ごろから、こうした近隣のマンションに避難することを、町全体として考えてこなかったことが、災いしたと思います。また、「自主防災組織」の行動として、動けば、日ごろ、それほど交流の無いマンションへも、「個人的」なつながりではなく、町民全体の「意思」として逃げ込むことができたでしょう。今回のような、大地震、即、津波の襲来という事態であれば、とっさに、近くの高い頑丈な建物に逃げ込むことしか、生き残る方法はありませんが、来るか、来ないか分からない「津波警報」に対しては、やはり、「住民組織」として、「こんな時はこうする」というマニュアルに基づく、「集団行動」が必要でしょう。
いったい、町内に誰が住んでいるのかも、どんな人なのかも知らない、避難場所までの実際の「距離」の長さよりも「心の隔たり、心の距離」の長さが問題です。生死を分けるのは、案外こうした問題だと感じました。
今回は家内と2人だけの避難でしたが、ふだんは85歳の歩行に難儀する父親がいますので(今は入院中)、津波警報が出て、すぐに逃げるとなると、父親を負ぶって、近隣のマンションに逃げ
ることしか、生存の可能性は無いでしょう。

わが町内(若松町)一帯は地震学者に言わすと「人が住んではいけない地域」、太平洋、浦戸湾を越して「大津波」が直撃すると、地震で生き残っても、とっさに高いマンションに逃げ込まなければ、まず、命は助からない危険地帯。1946年の「南海地震」でも、被害の大きかった地域。そうしたリスクを引き受けながらも、生まれて57年、僕はここに住み続けています。それでも、住み慣れた、この「下知」(しもじ)が好きです。
この好きな地域に住み続けるには、何ができるか、まだ全貌が明らかにならない、今回の地震ですが、今すぐにでも、わが町でも取りかからなければならないことは多いようです。

posted by うんちくウメッチ at 20:27| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月07日

「号外」!  57歳にして、「自動車免許」を取りました。


生涯、運転免許を取ることは考えていませんでしたし、車の必要をそれほど感じない生き方をしてきました。
ただ、車には乗れないくせに「車好き」。けっこう、「車」には詳しくて、ひとが驚きます。

昨年末、84歳の父が、追突事故を起こし、今も入院中。
父は、もう車には乗らないと思いますので、家のドライバーは、家内一人。
また、僕の仕事は、福祉施設の職員ですが、歩行に難儀する,ホームの入居者を病院などに連れて行く必要もありました。

大きなきっかけはやはり、父の事故。足腰の弱い父を、いつも家内だけに頼って、リハビリや、外に連れていくことが、家内だけに負担をかけることになり、自分の勝手で、早期退職をした「弱み」から、とうとう、一大決心をして、この1月中旬より、こっそり、自動車学校に通っておりました。

これは、家内に黙っての「隠密行動」。先日、証拠の「仮免許証」を見せて、驚かせましたが、「努力の甲斐」(?)があって、3月3日、卒業検定に合格。3月7日、伊野の免許センターの試験にも一発合格して、晴れて、57歳にして「中高年ドライバー」となりました。

教師時代はずっと「自転車」でしたが、生徒を笑らわすため、銀色の愛車に「シルバー・ポルシェ」と命名しておりました。
「悪りことし」への罰に、よく「ガレージ(学校の自転車置き場)に置いちゅう、おれのポルシェ(チャリンコ)を磨いておけ」と、命じたものです。

教え子たちも、僕が一生、車の免許は取らないだろうと考えていましたので、今回の「異変」に、彼らが一番驚いています。

教え子には「自動車関係」に就職したものも多く、Y君は、高校卒業後、職業訓練校の自動車板金・塗装科をトップの成績で卒業。今は社長で工場を自営(但し、従業員は彼1人)。

K君は外車を中心とする販売店の中堅社員、もうひとりのK君は整備士。
この3人は同じクラスの同級生。そして僕が担任しました。それぞれが連絡を取り合って、仕事を回し合っています。

早速、3人には「今、お前らあが、そうやって、一人前になったのは、誰のおかげじゃあ。それがわかっちょったら、俺向きの「中古の軽」を探して来い」と、「厳命」しておきました。
そのうち、車が来るかもしれません。

ひよっとすると、本物の「シルバー・ポルシェ」が、プレゼントとして、家のガレージに届いている・・・・
まあ、これはちょっと無理でしょう。

何より、こんな「オンチャン」を、根気よく、指導してくれた「鏡川自動車学校」の職員の皆様、ありがとうございました。 今後,慎重な安全運転に努めます。


写真は「本棚」のわが愛車 もちろんミニカー
好きなヨタ八、ポルシェ、スバル、ワーゲン、フィアット500など


P1040414_R.JPG

posted by うんちくウメッチ at 21:24| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月06日

21世紀「八朗学級」がありました

前回のブログにも書きましたが、1年前から再開された新「八朗学級」が3月4日開かれました。

「八朗」(ペンネーム)」こと、母校の国語教師、内田祥穂先生は1990年に亡くなられましたが、「八朗学級」は、G高校を不当解雇された間、内田先生に、「教壇」に立ってもらおうと、始めたものです。

当時は先生だけでなく、様々な分野で活躍している市民や内田先生を支持する卒業生たちも「講師」となり、学習会を開いたものです。

先生が教壇復帰を果たした後は、休止状態でしたが、あの解雇撤回闘争が終わり、もう30年以上たって、いつとはなしに、当時のメンバーが、「新しい「八朗学級」をやりたいね」ということで、1年前に再開しました。「21世紀八朗学級」のトップバッターはG高校の国語教師であり、詩人としても活躍する、林 嗣夫先生、第2回は、僕、3回は詩人の小松弘愛先生。そして今回はG高校12期生の坂本 勲さん。

坂本さんは、現在、引きこもりの大人たちを手助けする「やいろ鳥の会」の副会長。
深刻な社会問題にもなっている「引きこもり」について、どう考えていけばよいか、解決の手立てや援助、「引きこもり」のとらえ方など、「やいろ鳥の会」」の活動も紹介しながら、講演してくれました。また、彼の「授業」に、引きこもり経験者であったS君(現在は回復し、仕事に従事)も参加してくれ、「当事者」であった青年の話は、説得力のある体験談でした。S君は元気になり、「ポレポレ農園」も手伝ってくれます。

僕は教師を辞めた年の7月から、坂本さんに声をかけられ、「やいろ鳥の会」が借りている農園(ポレポレ農園)を手伝ってきました。

坂本さんに「お前がやめるがあ、待ちよった(?)。農園の畑仕事を手伝うてくれ」と、誘われ、再就職した昨年秋まで、先輩の畑仕事をサポートしました。

教師をしていましたので、「不登校」などは、身近な問題として、取り組んできましたが、「引きこもり」については知らず、これほど、たいへんな状況にあることを坂本さんから教えられました。

「ポレポレ農園」(ポレポレはスワヒリ語。ゆっくり、の意味)は、引きこもり状態の青年たちの活動の場所として作られましたが、なかなか、肝心の青年たちの参加は少なく、その親たちが畑仕事をしていることが多かったです。それほど、「引きこもり」からの脱出は時間もかかります。

21世紀「八郎学級」は、年間3,4回の「授業」をやっていきたいと考えています。
負担にならず、忘れた頃に刺激を受ける、そんな「学級」をめざしています。

次回は、6,7月頃、G高校12期生、元吉仁志さん(ガンさん)の「インド」の話。ガンさんは「山岳部」の1年先輩。58歳の今日まで、のべ5年近くをインドで暮らしています。
新「八郎学級」をやりたいと、言いだしたのも彼ですし、この学級の「事務局」として、案内や,講師依頼、「授業」の後のレポートを、丁寧にテープ起こしをし、生徒に「復習教材」として送ってくれるなど、しんどい仕事を引き受けてくれています。


全国ひきこもりKHJ親の会高知県支部「やいろ鳥の会」のHPができました。http://khj-yairo.org/siteadmin/

坂本さんが、今回の「授業」の参考に持ってきてくれた資料
立命館大学特任教授 高垣忠一郎 退官講義
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/451pdf/03-02.pdf

posted by うんちくウメッチ at 20:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

中学3年、僕たちは、3学期中、「井伏鱒二」を読み続けました

先日、ななしの店主が、中学時代の「文学との出会い」について書いておりましたが、2人共通の恩師、詩人、林 嗣夫先生の影響が、ともに大きかったと思います。
特に中学3年の時に習った「国語」の授業は強烈でした。
2学期中に教科書は済ませ、3学期は「教科書」として、「岩波文庫」の「井伏鱒二短編集」を購入。「山椒魚」「遥拝隊長」「屋根の上のサワン」などを、生徒が順番に朗読し、考えるという国語の授業でした。

僕も公立中学の教師でしたので、「教科書を使わない授業」がどれだけ、たいへんで、難しいか、よくわかります。どの教師もやってみたい「授業」ですが、時々ならともかく、3学期中、岩波文庫をテキストとして、授業をするのは、力量がないとできないことです。

僕たちの中学には、国語の権威、内田祥穂先生がいましたし、石田波郷を熱く語った高橋恒介先生、田山花袋の研究者、一間 修先生、それに、詩人の林 嗣夫先生など、そうそうたるメンバーがそろっていました。

学校が独自に編集した「漢文」のテキストもあり、李白、杜甫は言うに及ばず、明治の軍人、乃木希典の漢詩まで習いました。すべて、暗誦、「素読」のやり方でたたき込まれました。

乃木の漢詩「山川草木、転(うたた)荒涼、十里、風生ぐさし、新戦場、征馬進まず、人語らず、金州城外、斜陽に立つ・・・・」などと、今でも暗記しています。

林先生からは、現代文学や詩の洗礼を受けました。「文学」は「社会」と切れて存在しないことや、「ものの見方」や「考え方」について、自分なりに考え、書いて表現することを教わりました。
こうした国語科教師集団の上に内田先生がおり、授業のたびに「新出漢字」の書き取りテストがあり、いつもきれいな毛筆の朱が入って返されました。

内田先生は、この学校が「進学予備校」化し、管理、抑圧を強めるようになると、学校当局から「危険人物」視され、やがて、解雇されるという、たいへんな事件が起こりましたが、先生を支持する教師や、組合、広範な卒業生たちの数年に及ぶ解雇撤回運動により、教壇復帰を勝ち取りました。

先生は、退職後は、土佐の生んだ幕末の篤農家、細木庵常(いおつね1780〜1848)の研究に取り組みました。細木庵常は幕末、土佐にできた「天保庄屋同盟」の中心メンバーであり、この庄屋同盟の思想が、やがて、武市瑞山たちの「土佐勤王党」に大きな影響を与えます。

僕や、ななしの店主も、内田先生の教壇復帰運動に、「卒業生有志の会」の一員として関わりましたが、この運動中にできた「八郎学級」(八郎は内田先生のペンネーム)で、林先生、詩人の小松弘愛、先生、内田先生たちに、今度は「大人」になってから学び直せたことが、いい思い出です。

また、先のブログで、ななしの店主が、中学2年生のとき、林先生が「現代作家で知っている人?」と、生徒に質問し、僕が「石原慎太郎」と答えたと書いていましたが、これは、中学3年の時のことです。ただ、僕は石原慎太郎は嫌いなのに、はたして、彼の名前を呼んだのか、当人は覚えていません。ただ、「太陽の季節」は読んでいましたので、言ったかもしれませんね。

当時、家の本棚にあった「日本文学全集」(よく売れた、新潮社の赤い函)の中に、「名作集 昭和編」があり、そこで、安岡章太郎、安部や遠藤、大江、石原,開高などを読んだのが、僕の現代日本文学入門でした。

「遅れてきた文学青年」、ななしの店主なども、高校時代は安部公房などに相当、いかれておりました。

あの当時、小遣い銭で買った「文庫本」は、「古典」や戦前期までしか収録されていなかった「岩波文庫」より、戦後文学が読める「新潮文庫」が魅力でした。

こうして「文学」の洗礼を受けた僕やななしの店主、同じようにブログを書いている丁稚のMたちは、高校2、3年も同じクラス。この組は、受験一辺倒の学校当局に反抗する、「文学、政治青年」をかき集めたようなクラスであり、高校3年の春、高橋和巳が亡くなった時などは、教室に「遺影」を飾り、追悼するなど、好き勝手をやっておりました。とうとう担任はノイローゼ、病休となり、しばらく担任のいない「解放区」みたいな学級となりはてました。

詩人の小松弘愛先生の「現代国語」の授業では「自由発表」もあり、ななしの店主などは、つげ義春の「ねじ式」に出てくる「金太郎あめ」は、何を意味するかなどと、わけのわからぬ考察で、周りを煙にまいておりました。

管理、抑圧の強い閉塞された教室空間で、この授業の時は、そのことを忘れさせてくれる・・・そんな「自由」を感じました。


こうした先生から「金の儲け方」は教わりませんでしたが、どうやら「自分らしく生きる」ことは学んだようです。



写真は内田祥穂(1909〜1988)先生の肖像
内田祥穂著「細木庵常の生涯」(1989年土佐史談会発行)

P1040411_R.JPG

P1040412_R.JPG

posted by うんちくウメッチ at 21:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月02日

内山 節(たかし)さんの講演がありました。

3月1日に、市役所に勤めているYさんが,内山 節さんの講演会があると教えてくれました。Yさんとは、最後に勤めた学校の街づくり推進活動を通じて知り合いました。お互い、農文協の出している『うかたま』を読んでいたことがわかり、この人とは、きっと波調が会うなという出会いでした。

内山さんは、最初に出された『労働過程論ノート』(1976年田畑書店)を読み、妙に気になる哲学者だと思いながら、その後、著書が出るたびに、リサーチしてきました。

群馬県上野村に住み、わずかの田畑を耕し、「講壇哲学」とは違う、「野の思想」を深める、その姿勢に共鳴することも多かったですし、内山さんが中高生の時から読んできた読書ノートに近い『哲学の冒険』(正続 毎日新聞社1985、90年)は、「僕よりたった3歳年上なのに、世の中には、こんな読書をしてきた人もいるんだなあ」と、その思索の深さに驚嘆したものです。この本は、その後、平凡社ライブラリィーに入り、今でも読めますが、僕は哲学入門書として、「名著」だと思います。

今日の講演は、「『ローカルな世界から創造する「温かいお金」』
現在は人間が人間の本質を否定する、かつてなかった時代と話され、「温かいお金」と「冷たいお金」のあふれる現代の資本主義のあり方を分析対比し、共同体的繋がりのある「温かいお金」の使い方を強調されたことが面白かったです。

「金がすべて」の資本主義社会にあっても、「お金」を通じた関係性を取り戻す以外に、人間が人間の本質(どんな動物よりも、一人では、何もできない弱い生物としての人間)を取り戻すことができないのではないかという、内山さんの指摘は、鋭いメスの入れようだと思います。

資本主義のメカニズムで動いている現実社会を否定するのではなく、「地域通貨」を使うことによって、人間性を取り戻す「ゲゼル経済学」の考え方の紹介も面白かったです。
また、実際に、自分の考えを、レストランに投資し、実践してみる、夢を捨てない「実践哲学」にも驚きました。仮にその「実践」が失敗しても、この人は失敗から学び、また、思考を深める、「生きた哲学」を作り出すだろうなと、思います。

社会が「通貨」で機能している資本主義にあっても、「共同体の論理」を急速に失った日本の社会病理を的確に分析し、新たな関係性を作りだす以外に、今の日本はまともに生きていけない、深刻な社会であることを強調して語れました。

著書からしか、窺い知ることのなかった内山さんの「肉声」を聞きながら、この人の本は、これからも、ずっと読み続けなければならないなと、あらためて思わせられる講演でした。

今回の講演は地元の社団法人「高知県自治センター」の主催。このメンバーの中に、僕と同じように、内山さんに目を開かれた方がいたことから、今回の講演が実現したようです。
高知県自治センターは、この講演を今回だけの企画とせず、継続的に内山さんから学びたいと、「宣言」していましたので、今後、高知で開かれる「内山学級」の生徒になりたいです。

写真は昨日の講演会と、読み続けてきた著書


P1040408_R.JPG

P1040409_R.JPG

posted by うんちくウメッチ at 21:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。