2011年02月20日

困った人々

第一の「困ったひとびと」

昨年から、高知県立図書館と高知市民図書館を、追手前小学校跡地に「合築」しようとすることに対し、県民、市民から、賛否両論の意見が出されました。検討委員会も、こうした声を無視するわけにはいかず、まだ、どこに、どのような形で作るのか、結論を出せずにいます。県市は早く、結論を出して、建築したいのですが、「検討委員会」の当局案賛成派は、最後は2月県議会で、いろいろ、言われても、大きな修正なく、当局案に近い結論を出してもらいたい・・・・どうもその方向らしいです。
巷の情報では、県は「検討委員会は「ガス抜き」機関に過ぎず、最後は押し切るだろう」というものです。

「検討委員会」の最初から、当局の「回し者」に近い委員が多数を占めていたことからも、こうした「ガス抜き」方法は、はじめからの「作戦」でしょう。

この不況、疲弊の激しい高知では、「図書館」のことなど、いつまでも話題とはならないことを、ちゃんと見通した「作戦」だった・・・
今日、明日、どうやって食べていこうか、「本」より「食い物」「仕事」が優先される、さびしくも、きびしい「現実」には、勝てません。

第二の「困ったひとびと」

この方々は「困った」というより、つける薬のない「アホー」です。
この春から、桂浜の竜馬像の両隣に、竜馬像の大きさに並ぶ、「半平太、慎太郎」の発泡スチロール製の「銅像」(?)を3か月ほど、一緒に並べ、その後は高知駅前に作る、NHK『龍馬伝』払下げ「想像上の龍馬の家」を置いた「見世物小屋」に運ぶとのこと。

こうした「浅知恵」の根拠を「土佐勤王党結成150年」を記念してとのこと。
今まで、「土佐勤王党」だと言っても、何もしなかった連中が、今度は「観光」だけに利用する・・・・

もともと、土佐には、古くから「郷士・下士」意識として、主君の「Y内家」を喜ばない風潮があります。土着「長宗我部残党」を誇る「過激派」などは「土佐は2度、進駐軍に占領された。最初はY内家、2回目はアメリカ」などと、「超飛躍的歴史観」を誇りますが、こうした「過激派」は、今回の、この「晒しもの展示」をどう思っているか、聞いてみたいものです。

隣県、愛媛などは、かつての「殿様」の一族が知事にもなれるところですが、廃藩置県以後、土佐を出た「Y内家」は、どうしたものか、土佐では「人気」はなく、中央では「侯爵」として持ち上げられましたが、ついぞ、土佐には「根」を張ることはできませんでした。

この、人気のなかった「Y内家」もNHKドラマ『功名ヶ辻』で「復権」して、県民にも受け入れられましたので、今回の騒動もまた、NHKがらみ。

どうやら、歴史は民衆が作るのではなく「NHK」が作ってくださる世の中となってしまいました。

こうした「お手軽歴史」からは、何も生み出す(いや、観光収入を生み出す?)ものはないでしょう。

時代も時間もたち、Y内派も土着派も、「土佐の窮状を救うにはこれしかない」と、今回は手をつなぐのでしょうか。

それなら、いっそ、足摺のジョン万次郎、東津野の吉村寅太郎、ついでに安芸の岩崎弥太郎の3人も加えて、「感謝NHKさま」で見世物展示の方がよろしいのでは?

写真は2月17日 高知新聞記事


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2011年02月18日

ある百姓の生涯


由井茂也(ゆい しげなり 1905〜2003)長野県南佐久郡川上村生まれ

高等小学校卒業後、農村の窮状を見て、社会変革の志をもつ
1923年 新潟県北蒲原郡木崎村の小作争議に参加 
年少の運動員として「農民小学校」の子供たちの教育を手伝う
争議中に逮捕.。起訴は免れたが、特高に付き添われ、郷里に送還
村では「共産党」「アカ」が帰ってきたと、大騒ぎとなる

以後、その行動はつねに特高の監視を受けることとなる
監視の目をくぐりながら、同志と産業組合づくりや青年会を作る
農民組合、農民自治会の運動に加わる
1930年5月 牧ヶ原海軍記念日大運動会で、仲間たちと「反戦ビラ」を配布
「運動会に出席した中島海軍中将は小諸小学校の講堂で講演したが、この時玄関に脱いだ彼の長靴から反戦ビラが発見され大騒ぎになった」(「農民自治運動史」大井隆男 P327 銀河書房)

家で急遽「仮病」になり、寝込んで動けないことを装い、逮捕を免れる
この「仮病作戦」は、当時、別所温泉に滞在していた高倉テルと、同志が相談して決めた
(高倉テルは1922年から上田市に移り、「上田自由大学」を設立、農民文化運動にとりくんでいた)
茂也は、本人も混乱するほど、数回も警察に拘束され、戦争が終わるまでは、常時、特高に監視される「要注意人物」であった。

こんな暗い時代に考古学に情熱を注ぐ。八ヶ岳山麓で旧石器時代の遺跡を発見。細石器を採集し続け、学会で、これらの採集石器が注目される。また、本格的な発掘が行われ、特に細石器文化については、日本で初めての体系化がなされた。
戦後は村会議員や議長をつとめ、村の民主化に取り組み、村長選に出馬するも落選。
2003年12月死去

家内の叔父が亡くなる前の一族の長老、茂也さんから聞き書きし、最近、まとめたものを送ってくれました
(『トスキナア �7』2008,4)。

僕は「茂也さま」には、一度しか会うことはなかったですが、その穏やかな表情からは想像できない百姓の生涯でした。

叔父が聞いた最後の言葉は
「民主主義を創造し支えるのは下からの力なのに、その創出は困難だった。
自分たちのことは自分で決めるという自立と、共和制の世の中をめざして生涯を送ってきたが、道は遠かった」

遺品を整理すると、堺利彦が贈った俳句の短冊2首があったようです

「下り坂見えて涼しきとおげかな」
「牢獄のこおろぎ避けて寝る夜かな」 堺枯川


写真は『草原の狩人 由井茂也日記抄』(ほおずき書籍1993年) 


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2011年02月14日

熊本はいい街でした


2月11日に、教え子の婚礼に出席するため、熊本市に行ってきました。雪のため、四国の高速道路は通行止め。夜中の1時半に高知を出発、中村、宿毛、宇和島、佐田岬の三崎港、豊後水道をフェリーで渡り、大分県佐賀関から、九州自動車道を通り、熊本到着、午後1時半という、12時間の長距離ドライブ、大変な旅でした。

「おれを一緒に連れていかなかったら、許さんぞ」と、婚礼に参加する教え子たちを「脅迫」し、昔の子どもたちとの、楽しい旅でした。本当は、若い者ばかりで行きたかったでしょうに、こんなオンチャンを連れて行ってくれてありがとう。感謝。

婚礼前に少し時間がありましたので、ホテル周辺を散策。熊本市は西南戦争で焼け、古い街並みはありませんが、その後の街づくりがよかったのか、けっこう古い建物も残り、歩いて楽しい街でした。大きな街ですが、何か「歴史」を感じられる、そんな雰囲気を残しています。

直感ですが、市民が街に誇りを持ち、愛しているな・・・そんなことを想像しました。教師時代は、修学旅行の引率で、何度か九州をまわりましたが、熊本市は滞在することがなかったため、短時間の熊本市散策でしたが、そのことを通じて、今度はゆっくり訪れたいな、と旅心がわいてきました。

西南戦争と言えば、中公文庫の「石光真清の手記」全4巻を思い出しました。石光真清は「歴史」に名を残した人ではありませんが、この4巻の手記は面白い。

子ども時代に体験した西南戦争当時の市井の様子、また、「冒険心」に満ち、こわごわ近寄り、目撃、体験した薩軍の活躍などの記述は、彼が大人になり、日露戦争前、陸軍大尉として、ウラジオ、満州ハルビンに潜入、ロシア軍の動きを探った活躍の下地を作ったことが想像されます。

名もない「一明治人」が書き残した手記を息子の石光真人氏が出版し、現在でも「中公文庫」で読めることはすばらしいことです。

すぐに絶版や版切れになることの多い文庫本ですが、石光真清の手記4巻「城下の人」「広野の花」「望郷の歌」「誰のために」は、昭和57年の文庫入り以来、ずっと中公文庫で読むことができます。
息子の石光真人氏は中公新書の名著「ある明治人の記録 会津人 柴五郎の遺書」を書いた人でもありますが、「石光真清の手記4巻」と「ある明治人の記録」は、僕の近代史を考える眼を育ててくれました。

ドラマの「龍馬伝」的な「官軍史観」を抜け出すには、この2冊は「必読文献」でしょう。

「歴史」を感じることができた熊本市と違い、わが高知市では3月から始まる「志国高知 龍馬のふるさと博」とやらで、高知駅前に龍馬、中岡慎太郎、武市半平太3人の「発泡スチロール」製の「銅像複製品?」を作るとか。

こういう「アホー」が観光行政を牛耳っている間は、「志国」ではなく「死国」でしょう。(他の志国3県に失礼!)

熊本市と違い、新堀川の「堀」をつぶし、街の景観を台無しにし、おまけに「ニセ人形」を並べて、人を集めようとする、「見世物小屋」に「こころざし」なんていう言葉を使ってはなりません。



写真は熊本市内
街の写真館と 眼鏡橋「明十橋」 中公文庫「石光真清の手記」

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2011年02月06日

強制収容所を生き延びた文学者


昨年、岩波文庫にイタリアのプリーモ・レーヴィの『休戦』が入りました。

最近の岩波文庫には20世紀後半の外国文学が入るようになってきました。好きな作家では同じイタリアのチェーザレ・パヴェーゼ『美しい夏』なども入りました。発表から半世紀を超えるわけですので、もう「古典」の部類なのでしょうか。

いろんな文庫が出版されますが、戦後から70年代頃までの外国文学は、今ごろ、読みたくても、絶版や版切れになっていて、(ブ)で探す楽しみ?はありますが、こうして、「岩波文庫」として復活し、若い読者に読まれることはいいことです。

レーヴィは、イタリアのユダヤ系であり、強制収容所に入れられ、生き延びます。『休戦』は解放され、イタリアに帰り着くまでを描いていますが、その期間、9カ月、こんなに時間がかかったことは知りませんでしたし、当時のヨーロッパの混乱した様子がよく描かれています。この作品は『遥かなる帰郷』(1997)という映画にもなっているようですが、僕はまだ見ていません。
帰郷後、作家となり、1987年、自殺。

強制収容所を生き延びたのに、その後自殺した詩人パウル・ツェランも、最近、若い頃の恋人との間の書簡が出版されました(『バッハマン・ツェラン往復書簡』青土社)。

先にはツェランの別の書簡集(『ツェラン・ネリーザックス往復書簡』青磁ビブロス1996)も翻訳されましたが、この詩人はまだまだ、日本では紹介されていない分野があるのでしょう。詩だけでなく、書簡から学べるのはうれしいことです。

今でも活躍しているエリ・ヴィ−ゼルの『夜』『夜明け』『昼』『死者の歌』(みすず書房、晶文社)なども、ずっと読み続けていますが、昨年は、オークションで手に入れた『ホロコーストの記憶 エリ・ヴィーゼルの問うもの』(サイマル出版会)を読むことができました。

過酷な収容所から生き延びたのに、レーヴィ、ツェラン、この2人の文学者が自死したことは、どう考えたらよいか、読みつづけながら、自分への宿題です。

日本やヨーロッパのファシズム、それへの抵抗、反ユダヤ主義は、ずっと関心を持ってきましたが、自己流に勉強する限り、「ファシズム」といっても、その中身は日本とヨーロッパではずいぶん違うなと思います。

「日本のファシズム」を定義するには、「天皇制」を柱とした「教育」など、戦争の遂行を支えた精神構造をもっと重要視すべきではないか、そんな気がします。ドイツ、イタリアのようなファシズムと同列にとらえることのできない政治や教育、精神構造を見なくてはならないと思います。

教師だったせいでしょうか、「軍隊」「武器」より「天皇、お国のために身命を捧げる」ことを教えた「教育」の力、これは、恐ろしく大きいものです。

ドイツのファシズムや教会のナチスへの抵抗(教会闘争)、ヒトラー暗殺に関わって刑死した牧師のボンフェッファーについては、高知、本山出身の宮田光雄先生(東北大名誉教授)の長年の研究や翻訳がありますが、高知ではこの学者のことは、あまり知られていません。

「いま、誰の話を聞きたいか」と、問われたら、僕は、宮田先生から学びたい、そんな希望を持っています。高知にはキリスト教会の連合組織がありますが、ぜひ、宮田先生をよんでほしい。

写真は、取り上げた話題の本のいくつか

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2011年02月04日

はか 死んでからで ばか 生きているうち

ななしの店主のブログをのぞくと、相変わらず「お馬」はやめられず、これで、生活費を稼ぐ、必死の生活のようです。こういうのを「芸は身を助ける」というのでしょうか?

この先、ほんと、どうなるのか、こちらも心配ですが、「まあ、なんとかなるやろう」精神で、ここはがんばってもらわねばなりません。

店主も、かつては、売れに売れた時もあった出版社勤務。時々は、編集もやり、営業で全国を飛び回っていた時代もありました。一時はここ故郷高知に帰ってきても、結構、懐具合がいいなとうらやましかったものです。

今は、ネット書店の店主、家の中が仕事場。外へ出るのは仕入れとダンスのレッスンの時ぐらいでしょう。「自分の才覚で稼ぐ」ことの難しさを、今ほど感じたことは、きっとないでしょう。

それに比べたら、公立中学の教師をやってきた僕など、「自分の才覚」とは無縁に毎月、給料をもらえたわけですので、ほんとうに「親方日の丸」。一番ダメな部類です。「がんばっても、金が入らない」恐怖感など、感じたこともない「世間知らず」です。

しかし、1年半ゆっくりできたことは、いい充電期間となりました。やめてみて、ほんとうに「世間知らず」で生きてきたことを痛感させられました。

いつぞやのテレビで、菅首相は「国民は70歳ぐらいまでは、元気に働いてもらわねば」と言っておりましたが、働きたくても、就職口にありつけない、地方の若者たちのことが、わかって言っているのでしょうか。

教え子たちが、それぞれの道に進む手助け(教育)をしてきたのに、学校を卒業しても、働き口がなく、時給700円にも満たない、アルバイトに精を出している・・・これが実情です。

教師をやってきて、これほど、情けなく、悲しいことはありません。社会に出る「入口」から閉ざされた若者に、「国家」は70歳まで働けなどという資格はありません。「勤労」を国民の三大義務だと教えてきたこと自体が恥ずかしい。「義務」なら、「保障」するのが、「国家」の責任です。
菅さん、お分かりでしょうか。

今、介護ホームで「生活相談員」という「なんでも屋」ですが、「子ども」ばかりと過ごした教師をやめて、「老人」ばかりと過ごすのは、僕にはいい勉強です。
やめてみて、今の仕事について、「歳を上手にとるのは、ほんとに難しい」これが結論。答えは死ぬ時。

新潮社のPR誌「波」1月号で、100歳の詩人、まど みちおさんの記事を見ました。

はか   死んでからで
ばか   生きているうち

まどさん、恐れ入りました。


posted by うんちくウメッチ at 23:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月03日

読書日録

なかなか、ブログの更新にはならず、これではいけないと思いながら、ばたばた、その日暮らしです。
疲れて帰った夜は、「書く」より「聴く」がいい。残してあるジャズのLPをヘッドホンで聴く、それが一番。明日への「元気の素」です。こんな時は、寝床に入っても「読む」はすぐ終わり、沈没。


1月14日
朝倉の(ブ)で拾ったマラマッドの『アシスタント』は、読了するのに時間はかかりましたが、いい作品でした。
京都、善行堂の店主も、この文庫本を手に入れ、読んだことを書いていましたが、それを見たあと、僕も偶然、(ブ)で見つけました。
小谷野敦が『聖母のいない国』(青土社2002年)で、この作品をアメリカ版「レ・ミゼラブル」と紹介していましたが、貧しくても、ひっそり、善良に生きようとする、「フツー」のアメリカのユダヤ系市民を描いていて、感銘を受けました。

それにしても、文庫でアメリカの作家は、高知の(ブ)でも、なかなか、読みたいものにはお目にかかれません。
昔はアップダイク、フィリップ・ロスなんか、よく文庫で読みましたが、今、手に入るのは、カポーティぐらいになってきました。

海外文学の翻訳や紹介が、一番、熱く輝いていたのは、名無しの店主や僕が高校生であった1960年代の後半から、10年ぐらいだった気がします。あの頃は、店主もよく書いていますが、サリンジャー、メイラー、アップダイク、マラマッド、ロス、マッカラーズなど、わくわくして読んだものです。

1月27日
デジタルになって、「写真」への興味や関心は薄れましたが、飯沢耕太郎が新聞書評の中で取り上げていた鈴木清の写真集『流れの歌』を購入。
この写真家の名前は知っていましたが、あまり見たことはありませんでした。亡くなって後、評価が上がってきたようです。

中学、高校時代より、少々ませた「写真小僧」でしたので、人よりはたくさんの作品や写真集を見てきましたが、この鈴木清や午腸茂雄など、じっと眺めていると、その評価が上がってきたことがよくわかります。

当時は山岸章二が編集長だった『カメラ毎日』に「新人発掘力」があり、最も、「写真」が輝いていた時代でした。もう、あんな時代は来ないでしょう。

外国では、ウィリアム・クライン、ロバート・フランク、極めつけはダイアン・アーバス。「こんな写真を撮りたい」と、その強烈な思想性をもった写真の力に驚いたものです。

日本の戦後写真史においても、かつては「巨匠」土門拳や木村伊兵衛などの評価が高かったですが、最近は植田正治や、高知生まれの石元泰博などの評価が上です。

最近は写真家の作品傾向が反映しているのか、昔とは、評価の視点が変わってきているように思います。

ところで、フイルムカメラの時代は、暗室技術の習得が写真学校の基本でしたが、デジタルの今、学校では、何を教えているのかしら?もう、暗室に入ることはないでしょう。

写真は鈴木清(白水社2010年)と午腸茂雄(未来社1994年)の作品集

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posted by うんちくウメッチ at 20:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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