2010年12月29日

今まで、本をどれだけ買ったか


いよいよ今年も終わり。秋から仕事に就いたこと、このブログを書き出したことが、僕には大きな変化だったと思います。

年末には「今年の10冊」とか、「私が勧める3冊」といった記事が見られますが、ここでは「読んだ本」ではなく「買った本」を記してみたいと思います。

僕は22歳の時から、『書籍購入ノート』をつけています。買った日時、本の名前、出版社、金額など、金銭出納簿のノートにずっと記録してきました。
今までに、このノートが5冊、ざっと総計400ページ。1ページ25冊として、25×400=10000冊。22歳の東京時代から57歳の今日まで、雑誌や学術誌を除いて、約1万冊を買ってきたことになります。

また、家内の本、父親の本、子どもたちの本やマンガ、22歳までに買った本、頂いた本や、市町村史や郷土史関係、研究紀要、定期購読した学術誌、教育関係の本、など・・・
7年前、家を改築し、思い切って、書庫をつくりました。しかし、すぐに満杯。このブログを書き出して、元本や資料を探し出すのに、苦労しています。数えたことはありませんが、家の中にはざっと、1万3千冊はあると思います。

がんばって整理したこともありましたが、追いつかず、今は書庫というより、倉庫状態。これを何とかするのが夢ですが、家内が教師をやめ、思い切って教育関係書を処分するまで、空きスペースがありません。
せめて、好きな本や必要な本、3000冊ぐらいで過ごしたいというのが夢です。いや、もっと1000冊ぐらいが理想でしょう。

どうしたものか、下の男の子が「本好き」。もう読まないだろうと、処分したかった小説なども、帰省するたびに、「倉庫」に入って探しています。こうなると、ちょっと処分するわけにはいかなくなりました。「本好き」が1代で終わり、死んだら、紙くずのごとく処分された「悲劇」をよく聞きますが、わが家にかぎっては、免れそう。これはうれしいことです。

2010年の1年間は、約350冊を購入。うち「ブ」で95冊、ネットオークションで97冊、古書店で17冊、後は街の書店。
今年は仕事をしていなかったこともあり、時間も豊富、そのため、近所の「ブ」へ行ったり、「日本の古書店」よりは安く手に入るネットオークションを活用しました。仕事についた今は、深夜までオークションに付き合う気力もありませんので、こちらは少なくなりました。しかし、地方では古書店は少なく、結局、欲しい古書は、ネットの古書店で買うか、オークションでゲットするしかありません。同じ本でも、オークションで買うほうが、はるかに安く手に入りました。

僕のような、古書マニアでも収集家でもない、ただの「本好き」は、読めればよく、それも、安いのが一番です。

写真は「書庫」というより、「倉庫」 

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2010年12月26日

一枚の写真から

以前にこのブログで、『龍馬伝』には出なかった、曾祖父のことについて書きましたが(11月28日)、今日は、父の故郷の須崎市に、父に代わり、お歳暮を届けに回りました。

須崎市の神田(こうだ)にある長男宅(父は三男で、U原へ養子にやられる)を訪ねました。
そこで、写真のような、曾祖父の写真を撮りました。今橋の家は曾祖父の時代に没落。その後、上分から、親族を頼り、神田に出てきたようです。

ずっと、貧しい三反百姓でしたので、その昔、残っていないと思われた、曾祖父が写るガラス乾板が発見された時は、一族で大騒ぎでした。さっそく、復元、それをもとに、肖像に仕上げたのが、ここに紹介する写真です。

この写真は曾祖父が明治維新の戊申の役の時、土佐の『迅衝隊』の一員として、会津若松を攻略に行った時の写真と言われています。

珍しく、洋装の軍服、帽子をかぶり、当時の土佐迅衝隊の写真に残る兵士たちと同じ姿です。

土佐の『迅衝隊』については、地元でも当時の記録が出版され、その足取りが詳しくわかるようになっていますが、僕はこの高価な本をまだ手に入れることがなかったため、よく調べていません。

手元には、戊申戦争の基本文献と言われる大山柏著『戊申役戦史』があるだけです。『戊申役戦史』では土佐の迅衝隊の進路や戦闘の様子はわかりますが、「戦史」ですので、兵隊たちの細かい様子まではわかりません。

この曾祖父の写真を見て、前から疑問に思っていたことは、この兵士(迅衝隊は600名)たちの洋式の軍服はどうやって調達したのだろうかということです。

日本にミシンが来たのは、ペリーの土産が最初と言われます(ドラマ『篤姫』で篤姫が初めて土産のミシンを使うシーンがありました)。

また、ミシンが大量に輸入され、軍服が大量に生産されるのは、軍隊が整えられ、被服工廠が作られる、ずっと後のことです。

まだ、明治維新の初年に、大量の洋式の軍服を、土佐藩で作ることは不可能。ある情報では、アメリカの南北戦争が終わり、大量の軍服がいらなくなって輸入したとも聞きましたが、確認したわけではありません。

当時の日本人の平均身長は5尺と少し、155センチ足らず。それよりも低い身長の人はたくさんいたようです。

大柄なアメリカ人の軍服を輸入できたとしても、そのまま着れる兵士は少なかった?
よく軍隊では「服や靴に身体を合わす」などと言われたようですが、この時分から、ダブダブの大きな服を着て、戦闘に参加した?

次々、疑問がわいてきて、真相はどうだったのか?

このブログを読んで下さる方は本好きが多いと思いますので、ぜひご教示下さい。

また、ひじいちゃんの写真には、おしゃれなスカーフが巻かれています。西部劇『黄色いリボン』はアメリカのお話。このスカーフもついでに輸入(?)したのでしょうか。

僕は、土佐の迅衝隊が攻め上がったのは、福島県の養蚕地帯。きっと略奪したのではないかと、よからぬ想像をしています。
名前は「官軍」でも、兵士たちは、そうとうの狼藉、略奪をしたことは史実にたくさん残されていますし、また、そうした辱めを受けた奥州各藩のうらみは、打倒「藩閥」の大きなエネルギーともなりました。

古ぼけた、一枚の写真ですが、たくさんのことを教えてくれますし、調べたくなります。

写真は曾祖父の復元肖像

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2010年12月21日

弁護士になれなかった お話 その3

1975年の秋の初め、細川弁護士から「U原よう、すまんが、ハンストの応援で、テントに一泊、泊まっちゃってくれ」と頼まれ、埼玉のK市まで行きました。

そこでは、細川さんの友人の、作家のTさんが、会社を解雇され、一人、テントを張り、会社の不当を訴え、ハンストに入っていました。

Tさんは細川さんと高校の同級生。つまり僕には先輩にあたったこともあり、昼間から、どんな嫌がらせがあるかもわからないので、Tさんを知っている、この僕へのご指名。

あまりうれしい仕事ではありませんし、もし、トラブルが起こり、Tさんの身に何か起こったら大変。緊張の中で、テント周辺でぶらぶらしておりました。

ハンストを知った、Tさんの友人たちもたくさん応援に駆けつけてくれました。
そのうちに、Gパンの大男がのっそりと現れ、ぼそぼそとTさんと文学のことなど話しこみ始めました。

Tさんの「江藤さんがあれだけほめてくれているので、大丈夫じゃないか」そんな会話が聞こえてきました。

そのうち、「紹介する。こいつは中上ゆうて、もうすぐ、俺より早く認められると思う。知っちょったらえい。」

Gパンの尻ポケットに無造作に図書新聞を突っ込んで、熊のような巨体に似合わない小声で話していた人が、まだ、芥川賞をとる前の中上健次さんでした。

この年の秋、新聞の文芸時評で、江藤 淳は、中上の『岬』を絶賛。2人の会話どおりに、翌年の1月、中上さんが第74回芥川賞を『岬』で受賞しました。

僕は当時は『19歳の地図』ぐらいしか刊行されていなかった中上健次さんのことは、名前は知っていても、作品は読んだことがありませんでした。

その後、次々と発表される『枯木灘』、『地の果て至上の時』など、郷里、新宮の『路地』のあり様と主人公、秋幸の成長を主題にした作品は、当時の若い作家にはない異質なものでした。

Tさんのハンストへの会社側の嫌がらせはすさまじく、夜中じゅう、自動車のヘッドライトを照らされたり、会社側が雇ったチンピラは、挑発するべく、酔っ払って、わざと、寝袋に入った僕の頭のふちで「立小便」をしてくれたり、さんざんな目にあわされました。

翌朝、細川さんたちが、会社側と交渉に入り、一文も払わないと強気だった会社側も、翌週、『週刊ポスト』に載った鎌田慧さんの取材記事に動揺し、一時金を支払うことで合意、僕の支援も終わりました。

一時代を旋風のように駆け去った中上健次さんを今、思う時、あのジーパン姿で、本当に熊のようにのっそりと、テントに現れた彼を思い出します。巨体に似合わず、その目は悲しそうで、優しかったです。

先輩Tさんは、その後も書き続けましたが、運には恵まれず、表舞台に出ずに終わりました。

Tさんが「お前もちっとは、これぐらいは読め」と押し付けるようにくれた吉本隆明さんたちの同人誌『試行』数冊は、まだ手元に残っています。



写真は書棚の中上さんの著作

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2010年12月19日

弁護士にはなれなかった お話 その2 


前回は弁護士になれなかったことを書きましたが、現、厚生労働大臣、細川律夫さんに付いて、弁護士の仕事のいったんは見せてもらいました。

1970年、10月、東京、大田区の大森勧業銀行で宿直銀行員が殺害されて発見されます。金庫をこじ開けようとした痕や、複数犯を思わせる靴跡、絞殺に使用された大型電気掃除機コードなど、遺留品多数。

被害者Mさん(27歳)が、作家、山本周五郎のおいであったことで、マスコミも大きく取り上げました。この「大森勧業銀行強盗殺人事件」の当時は、銀行員が交代で宿直する制度があったようです。

警察は周辺の聞き込みや、情報から、仕事にも付かずブラブラしていたKさん(21歳)を別件逮捕。
1973年3月、Kさんは東京地裁で無期懲役を言い渡されます。

やってもいないのに、犯人とされたKさんは、控訴。貧しいKさんの無実の訴えに、手弁当の若手弁護団が結成されます。

細川さんも、弁護士になったばかりで、この裁判に参加します。僕が出会ったのは、この頃です。
細川さんに頼まれ、裁判所に提出する資料写真を撮ったりして、こうして、僕の東京高裁通いが始まりました。

1978年10月30日、午後1時30分、東京高裁刑事第7号法廷。

「被告人前へ。これから、被告人に対する住居侵入、強盗殺人事件について判決を言い渡します。
主文  原判決を破棄する、被告人は無罪」

うれしくて、涙が止まりませんでした。その日の夕方、釈放されたKさんを撮るまでが、僕の仕事でした。

見込み捜査による初動の判断ミス、誘導尋問、自白の強要、警察・検察の証拠隠し、冤罪になるミスのオンパレード。「逆転無罪」判決は大きく報道されました。

複数犯による犯行ともいわれながら、残念なことに、事件は迷宮入りしてしまい、亡くなった銀行員Mさんには申し訳ないです。

二審での若手弁護団の活躍は、1979年12月『逆転無罪』の題名でルポライター松永憲生さんと弁護団の共著として刊行。
細川さんたち、弁護団はあとがきに僕の名前を記してくれました。

弁護士にはなれませんでしたが、学生時代のこうした体験は、その後、中学の社会科教師になっても、役立ちました。

東京高裁通いのあの頃は、時間がある時は、ロッキード裁判もときどき傍聴。
あわてて地裁のエレベーターに飛び乗った時、先客は、なんと「目白の闇将軍」「元、総理大臣」「越山」、田中角栄さん、秘書、警備員の3人。飛び込んできた、見知らぬ僕を、田中越山先生は、あの、得意の「イヨッ!」ポーズで出迎えて(?)くれました。

密室のエレベーターで、この方と、上の階まで、無言、緊張、冷や汗で行けたことは、一生忘れんでしょう。

写真は『逆転無罪』1979,12 発行 現代史出版会 発売 徳間書店


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2010年12月18日

弁護士にはなれなかった お話 その1


仕事で上京しましたが、僕の関わる福祉のことでは、時間の都合がつけば、細川律夫厚生労働大臣と会う目的もありました。

仕事が終わり、大臣のケータイに連絡を入れると「今閣議が終わったところ、これから、玄葉さんと会わなければならなくなった。予算のことじゃ。何とか会える時間を作りたいので、もうちょっとしたら、またこちらから連絡する」とのこと。

夕方になり「やっぱり今夜は無理じゃ。ほんとうに、すまんなあー」と連絡が入り、今回の接触はあきらめました。

細川律夫さんとは、僕が20歳ごろ、東京で知り合いました。2人の母校のU先生が不当に解雇され、その解雇撤回の運動が高知で始まっていた頃です。

東京でも、「卒業生有志の会」が結成され、その中心になったのが、当時、弁護士になったばかりの細川さんでした。店主のTも東京の会には参加していました。

細川さんは、高校の10年先輩、同じ大学ということもあり、かわいがってもらい、仲人もしてもらいました。

ある時、「U原よう、お前、弁護士をやらんか、おうちゅうぞ。試験に通るまでは、うちの事務所で働いて勉強したらえい」とまで、応援してくれましたが、僕には、法律に対する興味や司法試験を目指して、勉強を続ける気力も学力もないので、せっかく目をかけてもらいながら、あきらめたしだいです。これは、もう仕方ありません。

この1月には、高知で久しぶりに会いましたが、僕は「衆議院議員にはなるだろうとは、思っていましたが、まさか、与党となり、副大臣(当時)になるとは・・・そんな時代が来ることは、考えたこともなかった」と話したものです。

細川さんも「俺も、考えてみたこともない、時代は変わりゆうがやなあ」と2人で感慨深いものがありました。9月には、とうとう、厚生労働大臣に就任。

出会った、あの頃から37年。僕は中学教師で終わりましたが、もうちょっと勉強して、弁護士に・・・・いや、もちろん無理な夢だったでしょう。

その昔、教員組合の記念講演に野坂昭如さんに来てもらい、3日間ほど、お世話をした時、野坂さんは僕に「戦闘的弁護士」というあだなをつけてくれました。一緒にお世話した2つ下のY先生は「スーパーの店長」。Y先生は、そのあだなにくさっておりましたが、彼はその後、40歳前半で校長、県教委の課長、今は市の教育次長。

僕へのあだ名は「ハズレ」でしたが、Yさんへのネーミングは、彼の管理職的資質を見抜いていたのでしょうか「当たり」でした。

今は飲みすぎて、ヨイヨイ・ヘロヘロの野坂昭如さんですが、やっぱりすごい作家の鑑識眼です。

写真はU先生の著書 『私は教師』と教壇復帰運動の本

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2010年12月17日

久々の神保町めぐり

あわただしい一泊での東京行きでした。
朝9時過ぎには羽田についたので、午前中は神保町の古書店を少し見て回りました。

5月の上京の折は歩き疲れて、神保町はあきらめました。
本屋めぐりは体力と気力がいります。

僕の買った本のことは、店主のTがさっそくブログで取り上げています。

『昔日の客』は店主から買わずに、怒られましたが、今回の上京は、仕事優先でしたので、ひょっとすると、店主にも会えなくなることもあり、あらかじめ、『昔日の客』を持ってきてくれとは言えませんでした。ごめんね。

ところが、偶然、駿河台下の「東京堂ふくろう店」に入ったところ、すぐ目に飛び込んできたのが、『昔日の客』でした。店主がブログで盛んにほめていましたので、僕の記憶にもあり、買った次第です。

まだ、触った程度ですが、冒頭の「正宗白鳥先生訪問記」や本の題となった「昔日の客」の話はよかった。店主も野呂邦暢が好きですが、僕も大好きです。『猟銃』のサイン本を持っていますが、これを店主に譲ると、売り飛ばされちゃうので、譲りません。

著者の関口良雄さんが本当に本好きの古本屋だったのがよくわかりました。こんな本はすぐ読み飛ばすのが申し訳ない。ゆっくり味わいたい。

関口さんの本の隣に、山本善行さんの『古本のことしか頭になかった』もあり、これも吸い寄せられるように買ってきました。2冊とも装丁がいいですね。

「東京堂」の並べ方も上手です。この本屋は昔から、なんか落ちついた安心感を与えてくれます。棚と棚の間も広く、疲れません。

本の置き方は話題になりますが、客から見た本屋の中の歩き方も大事なことだと気づかされました。

スズラン通り、神保町を駆け足で回りましたが、気になったのが、昔と比べ、本が安くなったこと。スペースを取る全集ものが、考えられないような捨て値になっていることに驚きました。

安いことは、買いたい者にはいいことですが、しかし、限度というものがある、そんな気もします。

ざっと歩いただけの感想ですが、思ったことは、「本の将来は、たいへんなことになるな」です。ただ、その先の予想はとても僕にはわかりません。

本の将来は大きく変わるでしょうが、変わらずあった『ラドリオ』で、ウインナーコーヒー飲みながら、買ったばかりの本をぺらぺらめくる楽しい時間を過ごせたことがよかったです。

今回のわずかな買い物

『昔日の客』関口良雄 2200円
『古本のことしか頭になかった』山本善行 1000円

 店外の棚から

『モーヌの大将』アラン・フルニエ 角川文庫 100円
『サルトル』F,ジャンソン 人文書院 300円


写真は『ラドリオ』

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神保町名物(?)店外の棚

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のんべの店主(右)と

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2010年12月15日

(ブ)さま、お世話になりました。しかし・・・

獅子ヶ谷書林の店主Tほどは、僕は(ブ)には行きませんが、(ブ)の一語で、あのお店を指すことを流行らせた方は偉い。「業界用語」として傑作ですね。

しかし、最近、(ブ)の質が落ちてきたように思います。

一度、このブログで「白昼のたな卸し!」事件(11月1日)について書きましたが、このお店も、以前より、欲しい本が少なくなってきました。

夏ごろから、本の棚を縮小し、ゲームソフトやコミックを増やしていましたが、高知は、もともと、あまり本を読まない、売れない土地、その影響がもろに出ているのでしょうか。

(ブ)の商品流通がどのようになされているのかは知りませんが、想像するに、普通の本やゲームなどの「売れ筋」は現地調達、現地販売、やや専門的な本は、都会に回しているのかなと、推測します。

僕が欲しい中公文庫や教養文庫のノンフィクションもの、講談社学術文庫、ちくま文庫、新潮文庫の海外文学、その他さまざまな古い新書や文庫などは、本当に少なくなりました。

(ブ)は、「本」を売って、伸びた会社。また、「売れる物を売れる場所で売る」、そういうしたたかさで、伸びてきた会社だと思います。もともと「本」に対して特別な想いいれがあったわけではないでしょうから、ああいう価格破壊ができたわけです。

本好きには、ほかでは高値の古書が、(ブ)では、105円で買えたという、ささやかな楽しみを提供してくれましたし、もともと古書店の少ない地方でも、たくさんの古書と出会える機会を作ってくれたと思います。

反面、地方の書店や古書店は廃業に追い込まれました。われわれのささやかな楽しみの「105円」などは、取るに足らぬことでしょう。

まさしく「悪貨は良貨を駆逐する」です。こうした現象は地方だけなのか、都会の(ブ)の傾向を見てみたいものです。

2010年 地元の(ブ)で手にいれた10冊  すべて105円

「カール バルト」人類の知的遺産シリーズ  講談社    
「やさしいことばで日本国憲法」池田香代子・ダグラスラミス  マガジンハウス
「父の戦地」北原亜以子 新潮社     
「九十三齢春秋」北林谷栄  岩波書店
「モーツアルトの息子」池内紀 光文社知恵の森文庫
「文化学院児童文学史稿」上笙一朗 社会思想社
「虹よ消えるな」小川国夫 講談社
「長良川 全」豊田穣 光人社
「一粒の砂 幸徳秋水の母 多治子の生涯」山岡千枝子 自費出版
「だれも買わない本はだれかが買わなきゃならないんだ」都築響一 晶文社

上さんの「文化学院児童文学史稿」は定価4000円、新本状態。これは児童文学が専門の店主に進呈しなくちゃ。

明日は一泊で上京。夜、時間があれば、店主のTを励ましてやらねばなりません。仕事の都合で会えるかどうかはわかりませんが、たった今、「会えんでも,俺は八重洲地下の行きつけの店で飲みゆう」との電話。なんとか時間を作り、一杯やりたいものです。

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2010年12月13日

秋水復権 高知新聞の力


「春三月 縊り残され 花と舞う」
充分な証拠もないまま、幸徳たちを殺した政府は、もし自分たちが赤旗事件で入獄していなかったら、自分らも殺していただろう・・・大杉栄は生き残った自分たちの姿を、やや自虐的にこう詠みました。

「大逆事件」で幸徳秋水たちが刑死してから、来年、1月24日で100年がたちます。
この12月になって、秋水の復権と再評価を求める2つの記事が「高知新聞」に掲載されました。

「高知新聞」は購読率も高く、多くの読者を持ち、県下の政治や経済、文化に大きな影響力を与持っています。秋水復権を願う2つの記事に、「さすが高新!」と僕は感心しました。

田中 全 四万十市長は「秋水は世界に先駆けて自由平等、非戦平和の思想を体系化した偉大な先覚者、思想家として評価されるべきではないか。中村には幸徳秋水という世界に誇れる宝がある。」と記し、市を上げて「幸徳秋水刑死百周年記念事業」に取り組むことを公言しました(12月3日付紙面)。

また、「論評 大逆事件100年」で森沢孝道論説主幹は「法律論とは別に、天皇制を認めない秋水のことを快く思わない人々は昔も今も存在する。また私生活の面に嫌悪感を抱く人もいる。こうした要素があったとしても、日本の近現代史の中で秋水の言論が色あせないのは逆風の中にあっても非戦を貫いたからであろう」と、のべ、秋水の非戦論の特徴を「平和的生存権」と捉え、「国際社会では武力に訴える風潮がなくならない。だからこそ秋水の非戦思想は、戦争と平和の在り方を考える視座を人々に与え続けるに違いない」と訴えました(12月6日付紙面)。

この2つの記事は、秋水復権の運動を大きく勇気付けるものだと思います。

テレビでは、この秋から、原作者の司馬遼太郎さんでさえ、生前にはドラマ化の許可を与えなかったといわれる『坂の上の雲』がいよいよ2年目を迎えています。

司馬史観の評価は歴史研究者の間では、決して高くはありませんが、「国民目線」での評価は「坂の上の雲」的な歴史の捉え方が多数意見でしょう。

ドラマはこれから、日本人一般が大好きな「明治日本」の偉大さを強調する方向へと進むでしょうが、一方で秋水たちの活躍があったことは、忘れてはならないことです。

小説『坂の上の雲』に秋水たちが登場していたかどうかは忘れましたが、もし登場するのであれば、どんな描き方にするのか、見てみたいものです。

秋水は刑死2週間前「事ここに至って、今は何をかいわんやです。またいおうとしても、いうべき自由がないのです。思うに百年の後、だれか私に代わっていってくれる者があるだろう、と考えています」と弁護人に書き送りました。

 100年たった今、「いってくれるもの」がどれだけいるのかが、試されていると思います。

それにしても、大きな影響力を持つ高知新聞。かつての社長、中島及(1886〜1980)は中学時代から「週刊平民新聞」を読み、秋水刑死後の、まだ誰も「大逆事件」に触れることを許されなかった時代でも、秋水の漢詩を収集、評価し、『幸徳秋水漢詩評釈』にまとめ、世に出した反骨のジャーナリストでした。

今、この新聞にこれだけの気概があるかどうか・・・・・

森沢孝道論説主幹は僕の高校の先輩。かつては教育担当の名記者のひとりでした。個人的にも尊敬しています。

森沢先輩。秋水の復権を願う、その熱い情熱で、高知の、あの「白バイ事件」を、社の命かけて、取り組んで欲しい。腰の砕けた、今の姿勢では、中島及翁も泣いていますよ。



写真は「高知新聞」12月3,6日記事

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2010年12月10日

「へんろ」と「へんど」

「土佐」と聞いて、海を思い浮かべる人は多いですが、じつは森林率84%、全国一の山国でもあります。

江戸中期、県境に近い、本川村に住んだ下級役人が残した記録『寺川郷談』は、当時の山村の風俗を知るための重要な資料となっています。

広く知られるようになったのは『日本庶民生活史料集成』(三一書房 全20巻1969〜 )にのせられてからです。
また、宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)の中に『寺川夜話』が載せられ、戦前、宮本がこの付近でハンセン病の老婆にあった話が出てきます。

88ヶ所「お四国めぐり」は、今、ブームのようになっていますが、「へんろ」と「へんど」という2つの巡礼があったことは、あまり知られていません。

「へんろ」は「遍路」、庶民の信仰に基づく巡礼ですが、「へんど」は「遍路」がなまったもの。「かったい」「かさ病み」と差別されたハンセン病で、行き倒れ覚悟で回った人びとをさすようです。

僕が最後に勤めた行川(なめがわ 高知市の鏡川上流、鏡地区と隣接)には「六部 ろくぶさま」と呼ばれる小さな祠(ほこら)がありました。

地元の言い伝えでは昔、「皮膚病」を患った相撲取りが、ここで介抱され、亡くなったと伝えられています。昔は祠のそばで宮相撲をやったり、皮膚病を患った多くの男女が病気快癒を願って訪れたといわれます。

「六部さま」の祭られている山道は、「けものみち」のような細道で、山道の「本道」とは外れています。今でも、いのししのワナがかけられる、村人も普段は通ることのない暗い山道です。

「六部遊行」「六部めぐり」は、庶民にはやった巡礼です.。山里に残る古文書のなかには「巡礼に出で候・・・」という名主の残した記録が残っていますが、ハンセン病にかかり、家を捨て巡礼に出る者は、もし行き倒れても、出身地、氏名がわかる札をさげて、村を出たともいわれます。

また、四国の山里で行き倒れても、村人は丁重に葬り、木札から分かった出身地に、亡くなったことを手紙で知らせたという話もあります。

行川の「六部さま」も、おそらく、本道の人目を避けて、廻らざるを得なかったひとびとの話が「相撲取り」や「皮膚病」に置き換えられて伝えられたものだと思います。

国がやったハンセン病患者への隔離政策は、やっと、1996年廃止され、政府も廃止が遅れたことを謝罪しました。しかし、今なお裁判は続いており、強制隔離された元患者さんは、人間としての尊厳の回復を求めています。

僕の母は、戦前、看護婦となり、当時の「無らい県運動」に協力させられ、山奥まで患者を探しに行ったことを語ってくれましたし、父は戦前は国鉄の機関士。須崎の駅で、特別な客車(その車輌だけ、一般の立ち入りを禁止)を繋いで、ハンセン病の患者を移送したことを語ってくれました。

春や秋、貸し切りバスやマイカーで、行楽のように廻る「88ヶ所めぐり」のひとびとを見る時、人目を避け、裏道を廻って、仏にいのちを預けて、行き果てた人びとがいたことは忘れられがちです。

『寺川郷談』は2002年、本川村(現いの町)から、原文と現代語訳をまとめた本が出版され、読みやすくなりました。


写真は本川村発行『寺川郷談』から 県立図書館蔵本 原文

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2010年12月09日

もろさわ ようこさんが入所しました。

『信濃のおんな』や『おんなの戦後史』を書いた、もろさわ ようこさんが、僕の勤めるグループ・ホームに入りました。

もろさわさんは沖縄、高知、故郷の信州にある、3つの「歴史をひらくはじめの家」を拠点に執筆に取り組んでいます。今回、新たに、僕の勤めるグループ・ホーム「いきいきの里」が気に入り、12月6日に来所しました。

もろさわさんは、1925年長野県に生まれ、家が傾いたため、学校は小学校までしか行けず、その後、東京に出て、陸軍士官学校の事務員、新聞記者などに従事します。1969年 『信濃のおんな』(未来社)で、毎日出版文化賞を受賞。女性史研究の草分けの一人です。

今回は施設に送った荷物の片付けですが、10日には沖縄に行き、寒い季節は沖縄と高知で暮らし、夏は生まれ故郷の信州と、暑さと寒さを避けながら、気に入った土地で、執筆するようです。

今回、「そろそろ自伝をまとめてみませんか」と、仲良しの森田益子さん(被差別部落出身の元、高知市議、県議)が勧める場面に出くわしましたが、もろさわさんは「自伝より、まだまだ書きたいことがいっぱいあります。100まで生きて、書き続けたい」とのことでした。

『おんなの歴史』(合同出版)から始まった旺盛な執筆は『信濃のおんな』、『おんなの戦後史』、『わが旅・・・沖縄・信濃・断想』(共に未来社)『いのちに光あれ 女性史と差別』(径書房)などになり、底辺から見たおんなの歴史や、差別と闘って来た被差別部落のひとびとの生き様。虐げられ、踏み付けられても這い上がり、生き抜くひとびとを取り上げてきました。

彼女の書く「おんな」には、恵まれて、世に出た人など、一人もありません。

僕の勤めるグループ・ホームも朝倉の被差別部落のど真ん中。自分の立つ位置、書くテーマを明らかにすることによって、党派性にこだわる編集者は逃げていったと、おっしゃっていましたが、彼女はずっと、自由に、柔軟に、自立して、書き続けてきたと思います。

現在85歳、戦前、戦中、戦後、そして21世紀の今と、彼女が生まれ、生きてきた時代と、歩みそのものが「おんなの歴史」です。

とても85歳とは思えない、若さと情熱、おしゃれな姿に圧倒されました。

僕は「おとこ」ですが、高知に滞在する間は、お世話をしながら、こじゃんと、もろさわさんから、学びたいと思います。


写真は
もろさわさんと肩を組んで U原 12、8撮る

P1040317_R.JPG
posted by うんちくウメッチ at 01:01| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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