2010年11月30日

継承することの難しさ

地元の新聞に、高知龍馬空港付近に残る「陣山通信施設跡」を子どもたちが見学した
ことが出ていました。

「戦争遺跡」という語も、ようやく定着してきたようですね。最近では幕末や明治初
期の建造物や駅の跡などが、「産業考古学」として、発掘、保存、研究されだしたよ
うに、かつての、文字のない原始時代を対象とした「考古学」もその範囲を広げてき
ています。また、「遺跡」という言葉も広い範囲を指して使われだしました。

「戦争遺跡」として、風化する戦争の跡を積極的に残そうとすることは、大事なこと
です。高知空港周辺に残る「掩体」7基(えんたい コンクリート製の飛行機の格納
庫)を南国市が「市史跡」として保存したことは大いに評価していいことです。

しかし、現在の高知龍馬空港や、あとで作った三里の海軍浦戸飛行場は、あまり知ら
れていませんが、朝鮮人を強制連行して、作られたものです。

「掩体」は「遺跡」として、目に見えて保存できますが、強制連行は「記録」し、
「記憶」されない限り、史実は継承されません。ここに、継承することの難しさがあ
ります。

中学教師時代、「広島に落とされた原爆でどれくらいの死者が出たと思う?」と聞く
と、「五百人くらい」という答えが返ってきました。

もう、そんな時代を迎えているのでしょう。こうした現実をおさえた、あらたな「平
和教育」が求められています。

以前、何かの本で読みましたが、関西地方のある女子大での実話。

教授「大阪が、艦載機で攻撃されて、たくさんの死者が出た・・・」

学生「先生、どうして、関西の飛行機が大阪を攻撃するんですか?」

笑えぬ現実です。「艦載機」という言葉が、もう学生の語彙には無いのです。

昨年、ある大学の先生と、最近の学生の読書について話している時、

「『新書』という言葉を知らん学生もいるよ」とのこと。

「文庫」も「新書」も知らなくてもいい時代が来るのでしょうか。

いや、かって戦争があったことも知らない・・・まさか、でも、本気で継承しない
と、そうなりそうな気がします。


写真は高知市内に残る空襲の跡
ここにあった鉄橋が曲がっています。
高知市文化プラザかるぽーと前で保存
残念ながら、説明板がありません。
知らない人にとっては、単なるオブジェ。


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2010年11月28日

「龍馬伝」、ご先祖さまに出番なし。

「龍馬伝」が終わりました。

とうとう、わが先祖は出番なく終わってしまいました。いや、一回はその他大勢組
(?)で、出ていたのかもしれません。

僕の姓はU原ですが、84歳になる父は、もともと、「今橋」姓。

父の叔母(U原に嫁ぐ)に子どもがなく、小さい頃にU原を継ぎました。

「今橋」の家からは、兄弟2人が「土佐勤王党」に入ります。

長男、権助(ごんすけ)は、五十人組の一人として、上洛。文久3年、江戸に入る
前、小田原で、あとを追ってきた坂本瀬ノ平を斬り殺し、江戸の土佐藩邸に自首。

わが一族の、公式記録に残る唯一の「殺人犯!」です。きっと、あの「唐丸籠」に乗
せられ、土佐まで送られたのでしょう。

権助は土佐へ送り返され、ドラマにもよく出てきた「勤王党の獄」で、武市たちと牢
入り。武市は南会所の獄舎。権助は山田町の獄舎でした。

山田町では、一緒の岡田以蔵たちが、斬首されます。以蔵たちの処刑をどんな気持ち
で見送ったのでしょう。

また、権助が斬った相手が、もし、上士だったら、この権助もいのちは無かった。幕
末のどさくさに出獄します。

権助は明治になり、なんと、民権運動には参加せず、反対派、高岡郡の「古勤王党」
の親分の一人として活躍(暗躍!)。

いま、佐々木高行(侯爵)が残した一級資料『保古飛呂比』(ほごひろい、日記12
巻、東大出版会1970〜)には、たびたび、土佐の民権派の動向を報告していま
す。

最近は民権派より、国権派の研究が進み、この手紙はたびたび取り上げられます。土
佐の民権運動を卒論にした僕は、この方の存在が、ちょっと、悩ましいし、複雑な気
持ちです。

次男武之助も勤王党に入り、兄権助の助命に奔走したようです。獄吏にたびたび金を
渡し、便宜をはかってもらったという話が残っています。

三男、栄三郎(新作)が、僕のひじいさん。三男坊でありながら、遅れて、京都入
り。坂本龍馬とは、きっと会っていないでしょう。

「京みやげ」は芸妓上がりの女性(つまり、ひばあちゃん)。土佐に拉致(?)され
ても、百姓などできない、昔話では「いつも、緞子の座布団に座った、それはそれ
は、きれいな人やった!」とのこと。

ひじいちゃんは彼女のために、全財産を使い果たしました。えらい!

彼は戊申戦争に参加(迅衝隊)。会津城追手門付近の戦闘で負傷。明治になり、初代
の県会議員をやります。

これで、こちらの今橋家は、父いわく「茶碗のひとつも残っていない」、典型的な
「井戸塀」組。絵に描いたような、完全な没落でした。

ひじいさんの上の代の一族は(今橋米治)、紀州、華岡青洲に入門。医師免許状をも
らい、今も続く医者(産婦人科)です。

幕末の嵐に呼応した、山間の郷士一族は、歴史の闇にのみ込まれても、細々と続いて
います。

それにしても、ひじいちゃんたち、「龍馬伝」に一回でも、出演したかったろうに、
もう、出演の機会は永遠にないでしょう、残念。

写真は「須崎市史」(1974)の今橋家系譜

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2010年11月27日

クジラが決めた2人の運命

僕は日本史を専攻しましたが、意外と、「歴史小説」は読んできておりません。

そんな僕ですが、吉村昭さんのだけは、けっこう楽しんできました。また吉村さんの
小説は、たくさんドラマや映画になり、土佐の「無人島長平」を描いた映画『漂流』
はずいぶん昔ですが、感動したものです。

今、吉村さんの『桜田門外ノ変』が撮られているようですが、これは楽しみ。

また、土佐では「ジョン万次郎」のことは、誰でも知っていますが、井伏鱒二が
『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を取ったことを知っている人は少ない。また、
「ジョン万次郎」という呼び方は、この井伏さんの作品から広まりました。

無人島長平こと野村長平(1762〜1821)が難破して鳥島に漂着したのが、1
785年。

中浜万次郎(1827〜1898)が同じ鳥島に漂着したのは、1841年。

長平は13年の無人島暮らし(途中で仲間が増えますが)ののち、自力で船を造り、八
丈島に生還、その後、土佐で幸せに暮らしました。

万次郎は、約130日、島に滞在。アメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカ暮らし。そ
の後、幕末に日本に帰り、「英語使い」として活躍。

長平13年、万次郎140余日。

この2人の運命を分けたのは?、なんと、クジラ。

長平の頃のアメリカはまだ、人口も少なく、沿岸のクジラでランプの灯は足りまし
た。しかし、ジョン万の頃は移民も増え、領土も拡大。ベーリング海まで、取り尽く
してしまいました。

無くなった油を求めての、太平洋進出でした。この間、およそ、50年の違い。

しかし、まあ、土佐で言う「潮吹くサカナ」が2人の運命を分けたとは、面白い。




写真は「無人島の図」(野村長平のものの模写?)高知県立図書館所蔵
(図書館で閲覧、コピー可脳)
「土佐国漂流人申口聞書」(土佐市立市民図書館1998)万次郎関係 宇佐真覚寺
所蔵を翻刻
「漂巽紀略 ひょうそんきりゃく」(高知市民図書館1986)万次郎の話を河田小
龍が聞書

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2010年11月25日

志を継ぐもの  龍馬一族はおもしろい

僕は1年半の素浪人生活におさらばし、11月から老人介護施設に勤めています。

縁あって、「福祉」の世界に飛び込みましたが、土佐の「福祉」を考える時、あの龍
馬の姉、乙女ネーヤンの子、岡上菊枝をはずすわけにはいきません。

乙女は御典医、岡上樹庵に嫁ぎますが、幸せな結婚生活ではなかったようです。ご存
知のように、離縁し、坂本家に帰ってきます。この夫婦の間の子が岡上菊枝(おかの
うえ きくえ1867〜1947)。土佐にある「博愛園」の園母、園長として、多
くの孤児を育てました。

龍馬の一族はキリスト教の伝道に生涯をかけた坂本直寛や沢辺琢磨、また、この岡上
菊枝のように、世の中の恵まれないこどもや、信仰に救いを求めた人たち、そんな
人々と共にあった、そんな一族が多いです。上流階級というより、社会の底辺と共に
あった、そんな家系といってもいいでしょう。

「金をもうけて成功した」、そんな人はいません。乙女の養子となった、龍馬のおい
の直寛も、最後は県会議員のイスを捨て、北海道、北見へ渡ります。その北見を出
て、牧師となりますが、その一生は、世俗的な成功とは違っていました。直寛が最も
力を入れたのは囚人への伝道でした。

直寛の思想を研究した松岡喜一先生(高知大名誉教授、現、自由民権記念館館長)は
その著作を『幻視の革命』(法律文化社1986)としたように、その生涯は完成す
ることのない理想を追い求めた一生でした。

また、孫の、坂本直行(なおゆき 1906〜1982)は北海道の原野で開拓に取
り組み、農民画家「ちょっこうさん」として親しまれました。生涯、「龍馬の一族」
といわれることは、彼にとっては迷惑であったようですし、彼も龍馬の血筋とは公言
しませんでした。

純粋に己の道を進む、世の栄達や名誉を求めない、これが坂本家のDNAであり、ま
た、龍馬の魅力でしょうか。

ドラマの乙女役、寺島しのぶさんが、からだを張った演技で、ベルリン国際映画祭銀
熊賞、最優秀女優賞を受賞した、映画『キャタピラー』は、12月、この高知でも、
1日だけの自主上映が決まったようです。

梨園の名門に生まれた彼女は、背負ったその出自を逆バネにして、汚れ役や作品を選
んでいるな、そんな気がしてなりません。

もともと歌舞伎や役者稼業は歴史的には蔑まれた賤業の出自。彼女の選択は、原点回
帰の役者魂なのかもしれません。

さて、今度の日曜で『龍馬伝』も最終回。どんな、ドラマの終わり方をするのか、見
たいです。

写真は龍馬の命日11月15日の後の生誕地記念碑前
例年になく、多くの花束に囲まれていました。


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posted by うんちくウメッチ at 17:59| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月23日

学者の作家的文体 色川大吉先生

地元の新聞に、「歴史学者」、色川大吉さんのことが載っておりました。記事の肩書
きが「作家」。最近は、こういう評価になっているのかと、感慨深いものがありま
す。本人は喜んでいるのでしょうか(?)。

八ヶ岳山ろくに住み、髪は金髪(!)、「えっ、あの色川先生」といわれてもおかし
くない、変身ぶり。85歳。まだ現役。自分史『昭和へのレクイエム』(岩波)が完
成したばかり。

73年ごろ、中村に健在であった大逆事件の生き残り、坂本清馬さんを尋ねた後、高知
に寄ってくれた時は『シルクロード思索行』(小学館)の話をしてくれました。旅に
使い、日本に持ち帰ったワーゲンのキャンピングカーでの来高でした。

「昭和」の終わり頃、高知で講演会を企画したとき、真っ先に色川さんにお願いし、
講演会が実現しました。名著『ある昭和史−自分史の試み』(中央公論社 197
5)を読んだ者として、色川さん以外の講演は考えられませんでした。

講演会の後、高知を案内したのが思い出です。香美郡、山北の「安岡家」では、当主
(章太郎さんのいとこ)もおられ、話がはずんだものです。

安岡章太郎さんが『流離譚』(現在は講談社文芸文庫)で描いたのは、この家を中心
とする、幕末から明治初年の一族の歴史。土佐の山奥の郷士が、いかに、幕末、維
新、民権運動に関わったか、小説ですが、土佐の歴史を勉強するものには必読書で
しょう。

また、色川さんの『明治精神史』(講談社学術文庫)は、僕など、若い頃はバイブル
的な本でした。

当時は講談社学術文庫版は無く、黄河書房版は古書店で1万円近くの高値。買いたく
ても買えない本でした。

「黄河書房」は色川さんが自費出版するためにつけた幻の出版社の名前。そのこと
を、後に書かれた著作で教えられました。

しかし、何と言っても、色川さんは出世作『近代国家の出発』(『日本の歴史』21
巻 中央公論社)でしょう。その冒頭を少し写しておきましょう。

『シベリアの広野を二台の馬車がよこぎっていた。
一八七八(明治十一)年七月二十三日、皇帝に別れをつげてペテルスブルグを出発し
た榎本武揚は、モスクワよりボルガを下り、カザンからベルムまでの一千露里を馬車
でとばし、ウラル山脈を越え、トムスク、イルクーツクをへてシベリア官道数万キロ
を突っ走った。

ザ・バイカルを行くときは、八月末だというのにすでに秋色深く、満目しよう条、陽
が落ちると気温は零下に下がった。

この日、明治十一年八月三十日、日本では右大臣岩倉具視、参議大隈重信以下八百名
近い従者をひきつれた明治天皇が、史上最大の北陸巡幸に出発していた。
・・・・・・・・
土佐の自由人馬場辰猪もまた、足かけ九年、二度のヨーロッパ留学を切り上げて、ロ
ンドンを船出し、パリからマルセーユ、カルカッタをへて横浜に向かっていた。
・・・・・・・
この榎本と馬場、井上と沼間との道が、交わることのない対角線にひらいていったと
いうことの意味を、それが象徴する国家と人民との対立を軸に、わたしはこの巻で追
求していってみたいとおもう。』 
                                  

これが、学者の文章かと、当時は物議を醸したといわれますが、色川さんは「シベリ
アの広野を二台の馬車がよこぎっていた」という、最初の出だしに4カ月ほども苦労
したといいます。あまり知られていなかった榎本の「シベリア日記」から、出だしを
創作したセンスは、「作家」です。

中学生時代、母が高知のI古書店で全巻まとめて買ってくれた、この『日本の歴史』
シリーズは、僕の歴史書の読み始め。I書店通いも、この時から始まりました。

久しぶりに「歴史学者それとも作家?」、色川大吉先生の元気な姿に安心しました。

写真は 最近の記事  高知新聞11月15日〜
「明治精神史」「ある昭和史」「ユーラシア大陸思索行」

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posted by うんちくウメッチ at 20:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月22日

明治の「キムタク」

「平凡社」という出版社は、どこよりも「写真」に力を入れてきた、「写真」を大事
にしてきたなと、今になって思います。

かつての月刊誌『太陽』などは、多額のギャラを払い、一流の写真家に撮ってもらっ
た贅沢な作りだったなあと、最近のカタログみたいな雑誌を見て思います。もうこん
な本は作れんでしょう。

今は、写真家の名前を付けた、たくさんの賞ができましたが、かつては、「太陽賞」
のみ。写真家にとって、この賞は芥川賞みたいなものでした。

第1回「太陽賞」(1964)受賞者は、驚くことに、あの、アラーキーこと、荒木
経惟さん。受賞作「さっちん」は復刻版で見ましたが、やっぱり、傑作。

その『太陽』の「時代を創った100枚の写真」(1988年7月号)の表紙は、明治の
青年、織田信福(おだ しんぷく1860〜1926)。土佐の民権家。写真は信福
20歳ごろ。

民権運動に燃えた明治の青年をこれほど、肖像写真としてマクロに記録したものは、
そう、無いのでしょう。それゆえ、「太陽」の表紙となった・・・そう推論します。

織田青年は明治20年、三大事件建白運動の折には、手製爆弾を持って上京。すごい、
「過激派」。その後、市会、県会の議員、熱心なクリスチャン(店主T野の父上と同
じ、高知教会)となり、仕事は歯科医。

いまでもこの歯医者は4代続いて、開業しています。この1枚の写真から、明治の青年
がいのちをかけた運動のすべてが想像されます。

この写真の本物は自由民権記念館にて常設展示。織田家からの寄託です。記念館にい
た筒井さん(現市民図書館館長)などは、来館者が言ったのかどうか、この写真に
『自由民権記念館のキムタク!』と、あだ名を付けておりました。

僕は教師時代(城西中)、社会科の選択授業で館を見学。生徒の織田君(4代目)を
前に「これが、お前のひじいちゃんだ」と説明。4代目は、その純粋な眼差しと、男
前ぶりに、ひっくりかえるほど、驚いておりました。それにしてもいい写真です。


 写真は「太陽」と「織田歯科」 文化財級の建築物です


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2010年11月21日

「もの」より、「ひと」が大事

  
たびたび僕は、このブログでも高知の図書館問題について書いていますが、どんな
立派な建物を作ることよりも、結局「知恵」を出すこと、「もの」より「ひと」だと
思います。

土佐の生んだ、世界的な写真家、石元泰博さんが、作品のすべてを郷里の高知県立
美術館に寄贈(寄託?)されています。

これは、作家の死後、作品が散逸しないためでもあり、また、無料で、高知県が石
元さんの作品をいただいた(預かった?)ことは、県民の大きな財産です。

石元さんは、土佐市に生まれ、両親とアメリカに渡り、シカゴで写真を勉強。戦
後、日本に帰ります。桂離宮を撮った作品や、日本固有の文化や伝統美を取り上げた
写真は国内外で評価されました。

特に、アメリカの都市、シカゴを撮った作品は、日本の写真家には無い斬新な表現
で、彼の代表作です。戦後の日本写真史を語る時、はずすことのできない傑作でしょ
う。

高知でも写真展が開かれ、僕など、あの有名な「シカゴ」シリーズを、石元さん自
身が引き伸ばしたオリジナルプリントで見て、高知にこの作品が残ることを喜んだも
のです。

ところが、現状の美術館では、石元さんの写真は一枚も展示されることなく、収蔵
(死蔵?)されたままです。写真を見たい方が高知に来ても、せっかくの石元コレク
ションが見られないのは、なんとしても惜しいことです。

この、10月から11月にかけて、「水戸芸術館」(吉田秀和館長、磯崎新設計)
で石元さんの大掛かりな写真展が開催され、大きな反響を呼びました。水戸市で開か
れた作品展の写真のほとんどは、高知からの貸し出し。なんとも情けない気持ちで
す。

 写真家の記念館は土門拳(酒田市)、植田正治(鳥取 岸本町)、入江泰吉(奈良
市)など、決して多くはありませんし、写真は絵画ほど、集客力がありません。愛好
者も少ないものです。そうした背景を考えるとき、高知県で、すぐに記念館を作るこ
とは、まず、無理でしょう。

せめて、石元さんが譲ってくださった作品を美術館で常設展示できないものでしょ
うか。小さなスペースで、数ヶ月ごとの作品入れ替えでも、やらないよりはいい。
「宝の持ち腐れ」ではあまりにも残念です。

展示スペースの問題、専門職員不足など、すべては「お金」にかかわることかもし
れません。

厳しい言い方になりますが、「金が無い」で済ます発想は、「金がある」場合で
も、たいてい、たいしたことはやっていません。無くてもやってみる、熱意と知恵が
欲しいものです

美術雑誌やメディアに大きく取り上げられる水戸のようなことは,真似しなくて
も、小さい企画は、知恵の出しようだと思います。高知はそれでいいと思います。

図書館問題も根は一緒。小さいなりに、「ひと」が、どう知恵を出すか。それに尽
きると思います。



写真は本棚の石本さんの「シカゴ」シリーズから
もちろん、絵ハガキです

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2010年11月19日

百姓が忙しゆうて、大臣などやってはおれん 小島祐馬先生のこと

余計な口を滑らせて、大臣のイスを棒に振りそうな、軽めの御仁がでてきています
が、昔の大臣の椅子はもう少し重かった(?)ように思います。座りたくても、座れ
ないのが、大臣のイス。昔はそのイスに今よりは重みがありました。

今夜はそのイスを蹴った、わが郷土の小島祐馬(おじますけま)先生のおはなし。

京都大学と聞けば、僕など文系の人間は、すぐに思い浮かべるのは「京都大学人文
科学研究所」であり、桑原武夫先生たちを中心とする共同研究です。戦後の70年代
までは、人文研の先生方の発言はあらゆる分野で影響力を持っていたように思いま
す。

その初代の人文研所長は小島祐馬博士。土佐の春野村、弘岡(現、高知市春野)の
出身。東洋学(支那学)の権威で、内藤湖南の弟子。河上肇に最も信頼された友人で
もありました。

 小島博士は太平洋戦争前に退官し、どこの大学にも仕えず、万巻の書籍と共に、郷
里の弘岡に帰って着ます。

ここからは 竹之内静雄さん(元、筑摩書房社長)の『先師先哲』(筑摩書房19
92)からの引用(P、224)。

僕はこんな話が大好きです。

「・・・敗戦後間もないころ、時の文部次官が、吉田茂首相の意を受けて、この、山
を北がわにひかえた、春野村の小島家まで、東京から訪ねてきたことがある、とい
う。
家のあたり、他に人はおらず、九十をも過ぎたと見られる老翁が、ひとり、縁がわ
で、日向ぼっこをしていた。
 次官が、老翁の耳もとに口をよせて、小島先生の所在をたずねると、
「祐馬か。祐馬なら、はたけへ行っちょる」
とその方向をゆびさした。
 畑を耕していた、いかつい老人をさがしあて、小島先生である事を確かめた文部次
官が、「つぎの文部大臣には、ぜひとも小島先生に」と、吉田首相の要請をつたえ
た。
 鍬を止めて、話を聞いていた小島先生は、ちょっと考えて、こう答えた、という。
「わしは、麦を作らんならん。そんな事をしているひまは、無い」
次官の報告から、話が世にひろまった。文部大臣には、先生の友人天野貞祐博士が
なった。・・・」


今、小島先生の残した万巻の書籍は高知大学へ寄贈され、全国に誇る「小島文庫」
となっています。また、先生は土佐が生んだ民権思想家、中江兆民の業績を早くから
評価し、戦後すぐに、本も書きました。

 僕はこの本を手に入れたくて、久しく探していましたが、10年前、「たんぽぽ書
店」の片岡千歳さん(故人)たちがやっていた、古書市でやっと手に入れました。定
価30円の本が2000円となっていました。

写真は   小島祐馬著「中江兆民」 弘文堂・アテネ文庫(1949)

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2010年11月17日

枝盛センセイはあらゆるピンクがお好き?

お城下、桜馬場に残る、自由民権家、植木枝盛の屋敷は、以前より「あの、憲法草案
を書いた家を何とか残せないか」と、保存を望む声がありました。

しかし、場所が市内の一等地。屋敷そのものは老朽化して、金銭的な価値はありませ
んが、敷地は広く、これを買い取るとなると、億の費用。

とても、そんな金はないということで実現しませんでしたが、やっと高知市が160
0万円を出し、植木が憲法草案を書いた「書斎」だけを解体、復元することになりま
した。

なにせ、貧乏高知市、解体、移動費用しかなく、移した「書斎」を市立自由民権記念
館に移築、復元する費用が足りません。

このため、今、市民運動で、この費用の募金活動をやっています(目標500万
円)。貧乏な僕も呼びかけ人になっていますので、5000円のカンパ。

大著「植木枝盛研究」(岩波書店1960)を書いた家永三郎先生は、この書斎に3
晩泊まったようです。

また、植木が憲法草案を書いた書斎はピンク色の壁だったといわれています。

1946年の南海大地震までは桃色でしたが、地震で壁がはげ落ち、家主が桃色の由
緒を知らず、白壁に塗りなおしたそうです。その後、床の間の目立たないところに、
当時の桃色の壁が残っていることが分かりました(「植木枝盛の生涯」外崎光広著 
高知市文化振興事業団1997)。

植木は廃娼論を書きましたが、残された『日記』からは、「言うことと、やることが
違う」大の女性好き。この矛盾がおもしろい。

すべてにおいて、まちがいなく、植木センセイは「ピンク」が好きなことが証明され
ました。

はたして、自由民権記念館に運ばれる「書斎」の壁は、当時を再現して、ピンクにす
るのでしょうか? 


写真は高知市立自由民権記念館

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2010年11月16日

「ニセ学生」のすすめ 実感「昭和は遠くなりにけり」

 今年の5月から10月まで、「ニセ学生」をやりました。

 「裏口入学」したのは、地元の高知大、人文学部、3回生「地域社会学」ゼミ。

 先生は准教授 蕭紅燕さん(女性)。北京大卒、東大留学の才媛。
土佐の田舎が大好き。面白い発想をする、ユニークでおしゃれな先生です。
高知の山村、旧鏡村にお住まい、文化人類学が専門。

 昨年、友人のルートから、特別授業に招かれ、中学の社会科について、学生たちに
話しました。
 
 今年は「よかったら、先生のゼミに「ニセ学生」として、このオンチャンを混ぜて
もらえませんでしょうか」と、あつかましいお願いをしたところ、「どうぞ、どう
ぞ」とのこと。授業料も払わず(1回、僕が特別授業をやる条件で)、毎週木曜日の
午後、90分の授業に参加。

「学食」のランチも昔とは大違い、美味しかった(高校時代、悪友たちと、教師の目
を盗み、学食を食べに行きました)。

 ただ、「書籍部」の本のレベルと分量にはガックリ。

 いやあ、楽しかった。今の若い学生と接するのは、「時代ギャップ」があって、逆
に楽しい。これは得難い経験でした。

 テキストは岩波文庫の『忘れられた日本人』(宮本常一著)。僕の大好きな宮本さ
ん、それもあの名作(?)『土佐源氏』」を含む授業。

 学生さん(全部で6人)が順番で、『忘れられた日本人』を各章ごとに担当、感想
を含めたレポート報告でした。

 つくづく「昭和は遠くなりにけり」でした。学生さんは「平成」生まれ。「昭和」
を知りません。知らないことでは、明治も大正も、かつまた、江戸時代も同じ。「平
成」以前の過去はすべて、彼らには「歴史」の範疇に入ります。

 それだけ若い世代ですので、宮本が採集した「人間臭い」昔話は、彼らに強烈な印
象を与えたようです。「夜這い」の自慢話など、いったい、どこの世界の話しかとい
う感じ。

 サブテキストとして、赤松啓介の著作などを紹介すると、刺激が強すぎ、強烈で、
熱心(?)に聞いてくれます。品のない実話の講義は「ニセ学生」なのに、もっぱら
僕の担当。大学教授になった気分でした(先生ゴメンナサイ)。

 中高生を相手にするのとは違って、「おとな」の大学生が相手だと、「性」に関わ
るテーマでも、遠慮なく講義や討論ができて、「やっぱり、大学生相手はいいな
あ」、「もうちょっと勉強して、大学教師をやらないかんかった」と、元中学教師に
は羨ましく思えたものです。

 今の若い世代を知るためにも、お暇な方は「ニセ学生」に戻ったらいいです。若返
ります。

 恩師の林嗣夫先生に報告すると、

「若い者はなんちゃあ知らんと侮ってはいけません。彼らは僕らより、ずっと、たく
さん、深く知っている分野もあるのです。」

さすが林先生です。



写真はゼミの特別授業 若宮八幡宮
宮司さんや若い巫女さんから、神道について学びました。

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posted by うんちくウメッチ at 22:49| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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