2012年04月02日

「レネー」の工場が完成  父の「畑」をNPOが借りることになりました

障害のある子どもたちの就労の場として、NPO「まあるいこころ」が運営する「菓子工房レネー」の新しい製造工場が完成しました。

僕の勤める福祉施設が建設資金を出し、NPOに賃貸する形ですが、福祉施設の隣に、3月末に完成し、今日から新しい事務所で仕事が始まっています。5月から、この新工場で、ケーキやパンの製造が始まるようです。

話をするなかで、「畑」を探しているとのことで、僕が仲介し、亡くなった父が借りていた畑(約100坪)を、代わって、このNPOが借りることになりました。
また、畑にある小屋の農具や、耕運機、すべてをNPOに寄付し、使ってくれることになりました。

「畑」の所有者の元校長のSさんも、障害者の社会参加と自立をめざす、この運動を理解してくれ、ほとんど「タダ」みたいな「賃貸料」で、気持ちよく貸してくれました。

ケーキ製造に従事するメンバーの「給食」を、春野に借りた「田んぼ」で米を育て、こちらの「畑」で、野菜を作り、「有機」で自給自足をめざすようです。
「農業」の仕事に就く障害者を、プロの元「百姓」が指導することになっています。

これまで25名の定員で、運営していましたが、工場も大きくなり、40名に増やす計画です。

僕の仕事も、4月からは、今までとは違い、「部分」でなく「全体」を見るような立場になりそうで、とうとう「福祉」の世界にどっぷり足を踏み入れることになってしまいました。

車の免許も取り、ヘルパーの資格も取りましたが、今以上に役に立つこともあるでしょう。

これで、「教育」の世界とは離れ、本格的に「福祉」の世界に踏み出すことになります。

ただ、「教師経験」は、高齢者との対話や、障害者の指導には役だっています。


写真は完成した新工場 4月2日撮影 

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2012年04月01日

春の信州

家内の父はことし85歳,母は79歳。レタスを作り、2男、2女を育てました。高原レタスは村をあげて成功しましたが、無理に無理を重ねた身体は、病気も出てきて、心配も多くなりました。「ちょっと様子を見てこよう」
3月28日夕、高知を出発、夜に京都泊、アルバイトで生活している次男の様子を見て、翌29日に、信州の実家まで車を飛ばしました。

免許を取って1年。昨年9月には「軽」で挑戦しましたが、今度は家内と2人で交代で運転、家内の「普通車」で飛ばしました。往復1500キロの高速道路の運転は、やっぱり、普通車が楽、「軽」と比べ、静かでストレスが違います。全行程の三分の二は僕が運転しました。

春の信州行きは初めて。八ヶ岳や南アルプスに残る雪景色はよかったです。
30日は信州も最高の陽気でしたが、翌日は日本列島大あらし。寒い雨や雪がちらつき、また、冬へ逆転、4月1日は、マイナス5度の朝となってしまいました。

南国高知では、今年の冬の最低気温が、マイナス3度ぐらいでしたが、ここ信州では4月1日でマイナス5度。特に珍しいことではないようです。高知は今、桜が満開ですが、こちらの桜は5月の連休明けぐらい。

家内の実家のある南佐久郡川上村は、今年の冬は厳しく、マイナス26度の日があったとのこと、「信州のおじいさんとおばあさんの2人を、せめて冬だけでも、高知に来てもらったら、過ごしやすいのにねえ」と、よく話していますが、やっぱり、生まれ育ったところがいいのかもしれません。

昨年、57歳で取った車の免許、僕もいつまで長距離運転ができるかはわかりませんが、高知、信州、往復1500キロのドライブは、家内と2人では、今後しばらくできそうです。これからは、時間を見つけ、途中の高遠や、松本、ずっと奥の雪の飯山まで、足を伸ばしたい・・・そんな時間が持てる日を夢みています。

写真は八ヶ岳、南アルプス、マイナス5度の寒暖計、 薪ストーブをくべる家内の父


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大感動!『野菊の如き君なりき』  当たり前の「風景」は消えてしまった

3月21日、第4回いきいきの里映画上映会を開催。

木下恵介監督、伊藤左千夫原作の『野菊の如き君なりき』(昭和30年松竹).。
大勢のお年寄りが涙で感動していました。これはやってよかった。

上映に協力してくれた、『小夏の映画会』を主宰する田辺浩三さんによると「木下監督は、この映画の後、もう日本の消えた農村風景では、まがい物の映画は撮れても、それは嘘。私にはもう撮れない。」と、昭和30年のこの作品について語っていたとのこと。

原作の舞台は江戸川周辺ですが、監督は自然描写を考え、舞台を信州におきかえ撮っています。原作の時代背景は明治の日清戦争後、明治30年前後でしょう。
昭和30年には、まだ、「明治」をイメージできる農村風景が、残っていたのでしょう。
この後の日本は「高度経済成長路線」を突っ走ります。

高度経済成長は昭和30年代後半からですが、昭和30年から35年頃までは、「もはや戦後ではない」と言われ、日本の社会構造が大きく変わっていく「助走」期間だったように思います。

昭和28年生まれの、この僕でも、小学に入る前の「原風景」として、まだ、近所には田んぼや畑、下知の池、葦の茂げる沼地、バッタが飛びまわっていた空き地、荷馬車、肥溜め、バラック住宅、共同便所、缶けりをした路地・・・・・が記憶されています。

あの頃はどこにも「3丁目の夕日」が輝いていた・・・・。

その景観が急激に失われていったのは、小学に入ってからだったと思います。
映画「野菊の如き君なりき」は、ストーリーとして、平凡ですが、当たり前の風景として撮られた自然描写は、懐かしく、素晴らしい。今の信州でも、もう撮れない「記録」的な価値があります。

電柱、アンテナ、舗装道路を避けて、山や田畑は撮れるかもしれませんが、かやぶき農家、白壁の土蔵、庭の様子や農具、百姓のしぐさなどは、まず撮れないでしょう。どこかの「街並み保護区」を使っても、「セット」的な「作られた風景」になり、風景に自然に溶け込む、役者の動きとはならないでしょう。どこか、アンバランスを免れない。

そう、この映画の残した「当たり前の風景」は、完全に「幻」かもしれません。

写真は第4回映画会

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家内が「放射線」の紙芝居を作りました。


「放射線」の被害を直接受けている福島県でも、「放射線」を浴び続ける恐ろしさについては、子どもたちには浸透していないことが、3月19日の新聞で報じられていました。

戸外で遊びまわりたいのが「こども」、そんなことすら許されない状況を作り出した原発を、まだ、「再稼働」させようとする、この国の政治に語る言葉もありません。

家内(小学教師)が、放射線の恐ろしさを訴える、「子供向け」の紙芝居を作りました。
あの「3,11」の後、徳島県の中学教師、富田真弓先生は「今、原発や放射線のことを授業で取り上げない教師は、教師じゃない」と、四国の教員たちに呼びかけていました。

家内たちも、富田先生と連絡を取り、「自分たちは何ができるか」と考えていたようです。
放射線の恐ろしさを子ども向けに書いたイラストブック『放射線になんかまけないぞ』(太郎次郎社 2011,12発行)が出され、「読むだけでなく、子ども向きの紙芝居にしてみては」と、早速、作ってみたようです。

目下、家内たちの小学教師のネットワークで、それぞれのクラスが、この「紙芝居」を使って「授業」を始めました。大勢の子どもたちに「放射線」についてわかってもらうには、1人で読むよりも、「紙芝居」の授業がいいようです。

今、汚染地域の子どもたちは、時間を忘れて、外で遊びまわることすら許されません。
教師が「仕事」として、「線量計」を首にさげ、運動場のあちこちを測りまわる・・・・
もう、「異常」な姿です。しかし、これが「現実」。

「紙芝居」がどれだけの「力」を持つか? まず、ネッワークを通じて、「授業」をやってみる、そんな学級が増えることを願ってやみません。



写真は「紙芝居」の一部

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3,11「反原発」高知集会を考える。  現役教師は1人も見なかった

「3,11」の日に、高知でも「反原発」集会がありました。

約1000人の参加。この参加数は重要です。「多い」か「少ない」か、人によって、評価は違うでしょうが、僕は、「捨てたものではない」という感想。
この1年間、いろんな集会が持たれましたが、「1000人」規模はありませんでした。

丸の内緑地から、はりまや橋まで、デモ行進しましたが、久しぶりに見る、長い隊列でした。
参加者は、「労働組合」の動員組もいましたが、「親子連れ」「市民」などが中心。従来の「労組中心」の集会とは雰囲気も違っていました。

「超党派」の呼びかけでしたが、中心は「個人」でしたし、「行かされる動員」ではなく「意識的な積極参加」が多かったと思います。

高知で「1000人」集まったからといって、原発はすぐに「廃止」できるものではありませんが、この意識的な「1000人」の集まりは、大きな意義があります。

こんな長い隊列は、その昔の「メーデー」以来。昔は教師でも、学校に、「授業要員」を残して、「5割参加」が当たり前でした。
こんなことは、今では「夢物語」。あの「大阪」だったら、「年休」取っても許されないでしょう。残念なことは、高知のこの集会で、知っている「現役教師」の姿が見えなかったこと。

教師にとって「3月」は超多忙な時、それは理解できますが、それでも、1人も知っている教師と会わなかったのは寂しい。

「君が代くちパク」でも、許してくれない、恐ろしい時代が始まっていますが、「歴史」はファシズムが最も早く「浸透」し、「洗脳化」が進んだのが「教育」であったことを証明しています。

まず初めに「教師」がやられる時代が、またきています。気がついた時には「遅い」!「歴史は繰り返す」!



写真は3,11「反原発」高知集会

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2012年03月04日

差別」を継承しない時代になるのか?

3月3日、「朝倉三町解放子ども会」による、発表の場に参加してきました。子どもたちのプレゼン能力に驚きました。

3時間の学習の後、3班に分かれ、学習した内容を、まとめていましたが、大人が、ほとんど、アドバイスすることもなく、上級生が指示しながら、テキパキとまとめていたのには、驚きました。なかなかのプレゼン能力です。

わずか3時間の学習でしたが、よくポイントを押さえ、堂々と、「大人」の前で発表していたと思います。

3月3日は「全国水平社結成90周年」。この90年で「部落差別」は無くなったのか?

「部落」の生活環境は「特別措置法」に基づく、改善事業が進み、「激変」しましたが、残念なことに、「結婚差別」などは、依然、残っています。かつては、行政から「放置」された劣悪な「生活環境」が、「見える差別」としてありましたが、今は、ネットへの書き込みなど、新しい「見える(読める)」差別」が「激増」しています。ネットでの中傷には歯止めがかかりませんし、書き込む者の「心理的差別・偏見」が、もろに出ています。

水平社結成から、90年。自らたちあがった「運動」が終われない「現実」を見すえていくしかありません。新しい「差別」や「偏見」は作り出されていく・・・・

あの、「3,11」から、もうすぐ1年。小出裕章さんは「原発」はどうしようもない「科学技術」であること、なぜどうしようもないか、技術を越えて社会的な見地から、『原発はさまざまな差別を生む、だから容認できないのだ』(『原発のない世界へ』ちくま新書 20011)といいます。鋭い指摘です。

かつて、出身地の「ヒロシマ」や「ミナマタ」を名乗れなかった時代がありました。いや今も「偏見」は消えていません。「フクシマ」がそうならないとは言えない「人権小国」の「経済大国日本」。

新しい「作り出された差別」にならない保障はありません。

「教育」はひとつ、ひとつ、こうした「差別」や「偏見」を、つぶしていく作業なのかもしれません。


写真は子どもたちの発表ともちつき


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2012年02月29日

「教師」を再開?

この1月から、高知市教育委員会のやる「朝倉チャレンジ塾」を手伝っています。

経済的に街の「塾」に行くことができない中学生を、週2日、夜7時から2時間、補充的な勉強の面倒を見ています。秋から始まり、市内5か所で開かれているようです。

中学3年生の参加もあり、この2カ月は高校受験に向けて、社会科の「特訓」でした。

受験生は意欲的な子どもが多く、全員、前期入試で希望の高校に合格、今は1、2年生中心の補習です。
「行政」が、「塾」と名付けて、無料で補習をすることに、高知の深刻な「低学力」の実態が現れています。

「そこまでしなければならないのか」という、思いもしますが、基礎がわからず、そのことが、すべての教科に影響し、「学びからの逃避」が、行政も「放置」できない、高知の教育実態です。

県民平均所得、200万円に足るか、足らないかという経済状況では、街の有料の「塾」にはやることができず、「貧困」が「低学力」に直結する、いやな世の中です。

しかし、フルタイムで仕事をし、週2回も夜間に教えることは、少々,しんどいです。やっぱり、「歳」ですし、正直、身体を休めたい。
春からは、今の仕事内容が変わりそうですので、この手伝いも3月末までにしようかと考えています。

1月からは、3回、「朝倉三町解放子ども会」の小中学生に、「差別の歴史」や3月3日が「全国水平社結成90周年」にあたることから、水平社がどうして結成されたか、子どもたちを指導してきました。

「差別の歴史」学習では、司修さんの傑作『河原にできた中世のまち』(岩波書店1988年)を使い、中世の「けがれ」や「河原者」について、学びました。
従来の江戸時代の「身分制度」から「差別」を考えることだけでは不十分だと、以前から考えていたことの反省です。

獅子ヶ谷書林の店主も評価しているように、この『河原にできた中世のまち』は歴史絵本(?)として、よくできています。これを超える絵本は、まだ知りません。

網野善彦さんが、中世の姿を書き、それに基づき、司修さんがよく、「絵本」として取り入れていると思います。
授業では、絵本の一部を、カラーコピーし、こどもたちに持たせ、何が描かれているか、こどもたちに問いかけながら、授業を進めてみました。

この絵本は、1989年に「産経児童出版文化賞」をもらったように、網野さんの、確かな歴史を見る眼で、司修さんの「画」が光ります。20年以上前の「絵本」で、すでに絶版になっていますが、この本はぜひ再刊してほしい。

この3月3日は、「全国水平社」結成90周年です。この日は僕の勤める施設に、大きな「水平社宣言」を外壁に張る予定。この手書きの「宣言」は「識字学級」で学んだ「おとな」が書いたもの。

「差別」や「貧困」ゆえ、学校に満足に行くことができなかった、6、70代の人々もいます。昔の「識字学級」は、明治、大正生まれが中心でしたが、現在は昭和世代が中心です。

今は「学校」へ行って、補習的な「チャレンジ塾」まで、保証される時代となりました。
「差別」や「貧困」から、「学び」から見捨てられた昔とは違っています。
「チャレンジ塾」は、課題や改善点は多いですが、「福祉」と「教育」が連携する、こうした「学力保障」は、継続して続けるべきでしょう。


写真は「識字学級」生による「水平社宣言」  歴史を旅する絵本  『河原にできた中世のまち』(1988岩波書店) から
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2012年02月25日

久々の21世紀「八朗学級」

24日の夜は、久々の「八朗学級」。今夜の講師は詩人の林嗣夫先生。

ちょうど、獅子ヶ谷書林のT店主が先生の『詩集土佐日記』を取り寄せ、その詩のなかに自分の名が出ていると書いていました。偶然です。

今回の「授業」の題は「3,11以後と、山尾三省のこと」

先生は、あの地震と津波、原発事故から、ずっと「科学」や「文明」について考えていたようです。

授業は山本義隆、池内了、中沢新一たちの論考を紹介しながら、詩人山尾三省の『銀河系の断片』(幻戯書房2009年)から、かれの生きかたや思想について学んだことの報告でした。

「彼(山尾)はアメリカでの同時多発テロの2週間前に亡くなった。ほぼ同じ世代であり、わたしは約10年生きのびて75歳になっている。そろそろ公の仕事もおしまいにし、その先の生き方も考えなくてはと思っていたら、大震災や原発事故が起き、現代社会に大きな亀裂が走った。ちょうどこのころに山尾三省に出合うということは、偶然であったが、引力にも似た必然を感じてしまう。」(同人誌『兆』152号「「生きかた」の自覚 山尾三省のこと」)

林先生、この春にはG高校の「国語講師」をやめ、51年間の「教師人生」を終えるとのこと。
振り返ってみたら、僕たちが習った頃は、まだ30代前半。若かった。僕はわずか「29年」で教師をやめましたが、先生の「51年」には、言葉もありません。


山尾三省  「一日暮らし」

海に行って
海の久遠を眺め
お弁当を食べる

少しの貝と少しのノリを採り
薪にする流木を拾い集めて   一日を暮らす

山に行って
山の静かさにひたり
お弁当を食べる

ツワブキの新芽と少しのヨモギ
薪にする枯木を拾い集めて   一日を暮らす

一生を暮らす  のではない
ただ一日一日
一日一日と 暮らしてゆくのだ


「「一日暮らし」というのは、“その日暮らし”ということではない。正受老人という人の言葉に基づいているという。死ぬまでに何かしよう、と考えていたら結局なにもできずに終わってしまう。一日一日をよく暮らす(完成させる)工夫をすることが要だ、という意味のようである。(林 前掲書)」


こらっ!林先生の「弟子」であるT店主よ。最近のお前の「一日暮らし」とは何や!(蛇足です。ゴメン)

写真は「八郎学級」の林嗣夫先生  

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追悼 「とんちゃん」のオトーサン亡くなる。


高知の名物酒場であった「とんちゃん」の創業者、吉本健児さんが、2月24日、朝早く、亡くなりました。104歳、大往生です。
このブログでも「とんちゃん」のことは取り上げましたが、それを見た方(平本さん)がコメントを入れて下さり、知りました。平本さんが、どんな方かは知りませんが、感謝。

元「とんちゃん新聞」編集長竹内直人さんから、とんちゃんのオトーサンが重態だとは聞いていましたが、やはり、残念な結果となってしまいました。

吉本のオトーサンには、ほんとうにかわいがってもらいました。101歳まで、時々は「とんちゃん」2階の「指定席」でお客を眺めながら「聖書」を読んでいました。

こんな時は、必ず、竹内さん、森本忠彦、島村義一先生(この2人は絵描き)も一緒で、ここで飲んでから、近くのオトーサン行きつけの「銀」(スナック)で、カラオケ。
我が家の「書庫」の落成祝いにも、来てくれました。

オトーサンが僕につけたあだ名は「ガソリンをしょった男」。若い頃の「熱血」ぶりを評してでしょう。それとも、いつ火がつくか、危険極まりない男という意?

酒の飲めなかった僕が修行したのも、この酒場。「常連」とは言えない「出撃回数」でしたが、そこそこ飲めるまでには「成長」しました。

なにより、お酒の合間に聞いた話は「人生勉強」となり、いつも「元気」をもらいました。これが一番よかった。

吉本のオトーサンありがとう。やすらかにお眠り下さい。
今夜の「前夜式」に行ってきます。   
PS 
今夜の式は「救世軍」に所属するクリスチャンだったオトーサンにふさわしい式でした。ブログにオトーサンの死去を知らせてくれた平本さんは、なんと、今夜の式で祈祷された、救世軍西日本連隊長 平本宣広さんでした。式次第に平本という名があり、ご本人に確かめますと、「私がブログを見てお知らせしました」とのこと。全国に、こんなブログでも読んで下さる方がいるのに驚き、いや、感謝。

写真は今夜の前夜式

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2012年02月10日

加藤周一はおそろしく鋭い

亡くなって4年もたつ加藤周一(1919〜2008)さんの著作や講演集が、よく出ています。
晩年は「九条の会」の呼びかけ人の一人でしたが、亡くなってから、改めて加藤さんの「言葉」が人々の「共感」を得ているようです。

最近『ひとりでいいんです 加藤周一の遺した言葉』(講談社2011,)を読み、やっぱり凄いなと、あらためて再認識。

「とにかく、日本人には「人間一般」という考え方が普及していないんじゃないですか。「人権」といっても、じっさい「日本人権」でしょう。「人間」で想起されるのは日本人じゃないでしょうか」

林達夫や渡辺一夫についても、僕など、そこまで考えつかない「鋭さ」を見せつけられました。

例えば林達夫が戦争中、「沈黙」を守りながら(加藤はそう書いているが、実際は林達夫も政府の海外宣伝雑誌の編集顧問的な立場にいたこともある・・・・U原)、「園芸」に没頭していたことをとらえて。

「林さんの場合「沈黙」が抵抗だった。それで、庭にラベンダーを植える。ラベンダーは外来種ですから、これは万世一系の純血主義に対する抵抗です。つまり、外来種だろうと日本の土に根を降ろすことができるということで、思想の普遍主義を表現していた。」

「渡辺先生のお宅は本郷にあったんですが、・・・・ラテン語を書いた木刻レリーフが掛っていた。

Odero si potero できれば憎みたい
Si non   さもなければ
Invitus 反対に
Amabo 愛するだろう

渡辺先生には渡辺先生の「日本」があり、その「日本」を愛し、そして、軍国主義の「日本」とその戦争を支持する「日本」を憎んだ・・・・といえば、整理された話で、現実には、そのふたつの「日本」は重なる部分がありますから、内面での葛藤は強いものだったはずです。したがって、「できれば憎みたいが、そうでなければ、愛するだろう」という告白になったのでしょう。」

最近『林達夫とその時代』(渡辺一民著1988年岩波書店)が復刊されたり、加藤や渡辺一夫が取り上げられたり、みんな暗い「戦争の時代」を潜ってきた「知識人」、それも故人。

混迷を深め、閉塞感に満ち、若者も何か「元気」のないこの時代。恃むべき「知識人」も見いだせず、なぜか、落ち着かない・・・・。
この国の「歴史」では「震災」の後、いい時代はありませんでした。やっぱり今は「戦争前夜」か?

若い頃、朝日新聞連載の『山中人間話』(福武書店1983年、のち連載は「夕陽妄語」へと続く)で加藤は「日本の保守化は、アメリカの場合ほど大きな影響を世界に及ぼさない。しかしアメリカの場合とちがって、国内の民主主義を殺すことになるかも知れない」と警告しています。忘れられない言葉です。

僕の大学時代は、すでに、70年前後の「熱気」はとうに薄れ、若者が社会や政治に「異議申し立て」することが「カッコ悪い」、「おとなしい時代」になりかかっていました。そんな時、平凡社の『林達夫著作集』7巻(1971年〜)は、直接には政治を語らず、文学的,比喩的な表現を通じて、暗に「社会を視る眼」を鍛えてくれました。

「もの言うなら声低く語れ」と諭してくれたのも彼です。

今、本棚にまとまって残るのは、林達夫、加藤周一、竹内好、森有正、橋川文三たち。


写真は『ひとりでいいんです』(講談社)、『林達夫とその時代』(岩波書店)

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